つい先ほどまで何もなかった部屋は今、運び込まれたダンボールに埋め尽くされそうになっていた。箱の側面に書いた「冬服」や「本」の文字をぼんやりと見ながら、これからの四年間を想像する。
 本当に一人で、やっていけるんだろうか。みぞおちの辺りが重たくなる。期待よりも不安の方が大きい。なんでだろう。新生活の始まりは、もっと晴れやかな心持ちだと思っていたのに。今この近辺にいる新入生の中で、一番顔色が悪い自信がある。きっとみんな、家族や友達、恋人に見送られながら故郷とお別れしてきたんだろうな。見送りだけではなく、親が一緒に付いて来てくれたという人も多いんだろう。今ごろ引っ越しお疲れさまと言いながら、買ったばかりのテーブルを囲んで宅配ピザでも食べているんだろうか。

「……いいなぁ」

 しんと静まり返るダンボールまみれの部屋に、そうぽつりと呟いた。
 実弥さんが私の進路について口を出すことは、一切なかった。卒業間近にやっと決まった進学先は、県外にある私立大学。行きたいと夢見続けた大学で、ここに入れないなら浪人する覚悟でいた。実弥さんは私が合格できるようにと献身的にサポートしてくれた。その頃の私には、不安なんて少しもなかった。実弥さんとはこれから先ずっと一緒に過ごせると分かっていたから、そんな長い人生の中でたった四年の間だけ遠距離になったところで、何かが変わるわけでもない。そう思っていたし、実弥さんだって同じ気持ちのはずだと思い込んでいた。でも、合格したことを告げた時に一瞬見せた表情が、なんだか胸に引っ掛かっている。あれは、あの表情は――。
 インターホンが鳴る。もしかして、と期待しながらドアを開けると、そこにいたのはガス業者のお兄さんだった。そうだ、ガスを開栓してもらうんだった。申し訳程度に備わっている台所へと通しながら、唇を噛む。馬鹿な私。実弥さんが来るはずないのに。
 新一年生を受け持つことになった彼は、新学期に向けての準備や部活顧問の仕事が立て込み、三月に入ってからは特に忙しそうにしていた。私も私で、合格発表の翌日には家探しやら引っ越し準備やらで慌ただしく、結局実弥さんの顔を見れたのは卒業式の日が最後。引っ越しは手伝うからと言ってくれていたけれど、業者の予約が埋まりきっていて、なんとかねじ込めたのは、部活の遠征合宿が入っていると言われていた日。見送りにも行けそうにない、申し訳ないと、実弥さんは電話越しに声を落としてそう謝っていた。
 大人はみんな、忙しい。両親も、年度末の繁忙期だから仕事は休めないと心苦しそうに話していた。私がもっとはやく合格できていたなら、出発はみんなと予定の合う日に調整できたはず。執念で勝ち取った合格だけれど、こんなに心細い気持ちになりながら故郷を離れるなら、いっそ浪人してしまえば良かったのかもしれない。そんなことを思いながら、一人で新幹線に乗り込み、パンパンに膨れたボストンバッグに顔を埋めた。


 ガス業者が帰って、再び一人になった部屋を見渡しながら、覚悟を決めたように息を吐いた。不安がっていたって仕方ない。一晩寝たらきっと、どうってことなくなってる。そう自分に言い聞かせながら、考える暇を与えないようにと荷解きを進める。洗濯機も自分で取り付けた。組み立て式の机も、イスも、ベッドだって。完成した家具をまじまじと見つめているうちに、気持ちが少し上を向くのを感じた。非力じゃない。この手で生み出せるものがある。だからきっと、一人でもやっていける。
 震動音が響く。机の上でスマートフォンが鳴っていた。そこに表示された名前に、息が止まりそうになる。

「……もしもし」
『おう。そっちはどうだァ』
「……」
『もしもし? 電波悪ィのか』

 通話しながら歩いているのか、実弥さんの声の向こうからは、車の走る音が聞こえる。

「……なんで、電話してくるんですか」
『したらマズかったか』
「だって、だって……」

 喉が締まって言葉が紡げない。堰き止めていたものがじわじわとあふれ出してくる。我慢してたのに。なのに、実弥さんの声なんて聞いたら私は――。
 インターホンが鳴る。

「あっ、ピンポンが……」
『俺のことは気にすんなァ。だがドア開ける前にちゃんと――』

 実弥さんの言葉が終わる前に、ではお言葉に甘えてと言わんばかりにスマホを置き、玄関へと走った。きっと宅配便だ。当面の食料として、あなたの好物をたくさん詰めて送っておくからと母が言っていた。覗き穴から確認することもなく、

「はい、すみません今――」

 と言いながらドアを開けた。そこで、言葉が途切れる。目が大きく開いてしまう。

「だから言ってんだろうがァ。ドア開ける前にちゃんと確認しろって」

 お前は危機意識が足りねぇんだ、とぼやきつつ、

「思ってたより広いじゃねェか」

 私の肩越しに中を覗き、品物を定めるように言う。
 幻かもしれないと思い、頬をぺちんと叩いてみる。痛い。ああ、実弥さんだ。本当にここにいる。でも、なんで?
 実弥さんを見上げ、唇がふるふると震えるのを堪えながら訊く。

「……合宿は?」
「途中で交代してきた。冨岡に。あいつには死ぬほど貸しがあるからな。……で、入ってもいいかァ?」

 のそのそと道を開ければ、実弥さんの羽織るコートの裾が膝をくすぐる。オリーブグリーンのそれは、私が実弥さんの誕生日に贈ったものだ。

「早くそうすりゃ良かったな。悪かった」

 靴を脱いで振り返ると、眉を下げるようにして微笑み、私の頭にぽんと手を置く。
 来てくれた。忙しいのに。新幹線で片道二時間もかかるのに。目の前にいる実弥さんの輪郭をなぞるように見つめながら、胸の中でパンパンに張り詰めていたものが途端に萎んでいくのが分かった。
 滲みはじめた涙を誤魔化すように、傍らの洗濯機を「見てください」と指し、声を張る。

「自分で取り付けたんです!」

 実弥さんは、ほう、と興味深そうに呟く。そうして洗濯機の蛇口へ手を伸ばした。

「なんですか?」
「お前ここちゃんと捻ってみたか」
「えっ? いや、まだ……」

 実弥さんが蛇口を捻ると、給水ホースの間から水がプシューッと音を立ててあふれ出す。わあっと声を上げて慌てふためく私に、実弥さんは冷静に言う。

「うまく嵌ってねぇな。拭くもんあるかァ」

 そうして実弥さんがホースを取り付け直す間、私は邪魔にならないよう、そろそろと床を拭いた。水が漏れないことを確認すると、実弥さんはやっと居室スペースへと入る。水漏れの件をなんとか挽回したい一心で、私はベッドや机、イスをぶんぶんと指差す。

「ぜーんぶ自分で組み立てたんです!」

 見て、とばかりに勢いよく腰掛けたイス。背もたれと肘置きがあって勉強も捗りそうだと、意気揚々と購入したものだった。

「このイスなんてすぐに出来――わ、っ……!」

 背もたれがぐわんと後ろに倒れ、そのまま床に落ちそうになる。実弥さんがスライディングして受け止めくれなかったら、後頭部を打撃していた。実弥さんの胸板がクッション代わりとなり、体のどこもにも痛みは走らなかった。床に倒れた私と実弥さんと、イス。束の間の沈黙ののち、実弥さんが口を開いた。

「背もたれのボルト、ゆるんでたみてェだな」
「……ごめんなさい」

 ああ、もう。何もできてないじゃん。情けない、恥ずかしい、悔しい。無残に横たわるイスから目を逸らして、ぎゅっと唇を噛む。視界が滲んでいく。

「謝るこたァねえだろ」

 やさしい声。後ろから回された太い腕が、体を包み込む。

「一人でよく頑張ったなァ」

 渦巻いていた負の感情が、風にさらわれるように消えていく。私はくるりと顔を後ろに向けて、彼の顔を目に映す。その途端に、涙がぶわりとあふれた。実弥さん、と泣きすがるようにその胸に顔を埋めると、彼は頭を撫で、背中をとんとんと叩いてくれる。

「帰りたいです」
「バーカ。自分で決めた道だろうが。初日からそんなんでどうする」
「バカじゃないもん」
「そうだよな、バカじゃねェよなあ」
「実弥さんは寂しくないんですか? 私と離れて平気なんですか?」
「……平気そうだったのはお前の方だけどなァ」

 その言葉に顔を上げると、実弥さんはあの顔をしていた。合格したことを知らせた時の顔。あれはそうだ、あの時に見た表情と同じ。

「覚えてますか。家に迷い込んできた犬のこと」
「……あァ、あったな」

 大正の頃。身重の私を気遣って、家の事の一切は実弥さんが取り仕切っていた。縁側に寝転びながら、庭先で衣類を干す実弥さんの背中を眺める私は、側から見たらとんだ女房だったと思う。宇髄さんに見られた日には、「元風柱が女房の尻に敷かれてる」と面白おかしく触れ回られるんだろうな。そんなことを考えていると、不意に視界を茶色いものが横切った。えっ、と思ううちに、実弥さんがそれを捕まえて、「迷い犬だ」と言った。ワン、と吠える犬は舌を出して笑っているように見えた。そのあとすぐに近隣に聞いて回ったけれど、飼い主は見つからない。仕方なく家に連れ帰り、きっと明日こそは見つかるはずだからと言っているうちに、ひと月近くが経った。その頃には犬もすっかり実弥さんに懐いていて、どこへ行くにも後を付いて来た。そんな犬に、実弥さんも「しつこいヤツ」と頬を緩ませていた。けれど、別れは突然訪れた。飼い主が現れ、犬は元の家へと帰って行ったのだ。

「実弥さん、あの時とおんなじ顔してますよ」

 犬を見送りながら、私の合格の知らせを受けながら、「よかったなァ」と言って一瞬見せた表情が、忘れられない。あの顔は、寂しいと言っていた。寂しさなんて感情は全部どこかへ置き捨ててきたように見せているけれど、本当は――。

「実弥さんも私と同じ気持ちなんですね」
「……うるせえ」
「かわいい人」
「おい、からかってやがるなァ」
「一緒にお風呂入りません?」
「――は?」
「昔よく一緒に入ったじゃないですか。なんだかあの頃のことを思い出したら懐かしくなっちゃって。あ、大丈夫。入浴剤あるんで。お湯が白くなるやつなので、何も見えないですよ」

 へへへ、と笑うと、実弥さんは「あのなァ」と目線を泳がせる。

「そういうことは……まだ早ェんだよ」

 口元を押さえる実弥さんの頬は、どこか赤みを帯びていたように思う。


「まだ早いんじゃなかったですっけ」

 狭い浴室に声が反響する。実弥さんは私を背後から抱きしめるようにしながら、

「……うっせ」

 と、口を尖らせた。
 あれから二人でイスを直し、ごはんを食べた。何がいいかと問われ、私は「ピザ」と即答した。本当にお前はジャンクな食いもんが好きだよなと呆れながらも、慣れた手つきで注文してくれた。今までも、デートといえば車で遠出するか、自宅で会うかのどちらかだった。家では実弥さんが手料理を振る舞ってくれることが多かった。もちろんどれもおいしい。けれど、どうも私は定期的にピザが食べたくなる体質のようで、その欲求が抑えられなくなる時には、実弥さんが察してピザを注文してくれるのだった。だから、注文には慣れている。アプリ会員にもなっているらしく、クーポンをいくつも持っていた。
 ピザを食べながら、ふと、ビール飲まなくてよかったんですかと訊くと、今日はいいと言った。ただお酒の気分じゃなかっただけなのかもしれない。それでも私の頭は、言葉の裏を読み取ろうとして回転を止めない。実弥さんと一晩過ごしたことは、まだなかった。キスまでしか、したことはない。付き合っているとはいえ、前世で夫婦だったからとはいえ、教師と生徒だから。だからきっと今夜も、明日からの仕事に備えて帰ると言うんだろう。酔うと帰れなくなるから、自制しているんだろうなと思った。
 食事もそこそこに、「お風呂先に入りますね」とその場から逃げるようにして言えば、彼はあの時の犬のように黙って私の後を付いて来て、こうして今、二人して小さな浴槽に身を沈めているのだった。

「何考えてやがる」

 えっ、と顔を横に向ければ、実弥さんは前髪の先から水を滴らせながら、「言ってみろォ」と言葉を促してくる。

「言えば困らせるとか思ってんだろ」
「……実弥さんこそ」
「なんだよ」
「言ってくれたら良かったのに」
「何を」
「……遠くの大学には行くな。近くにいろ、って」

 実弥さんは目をわずかに見開くと、ハッと息を漏らすように笑い、私の濡れた髪をかき上げる。

「お前の妨げになるようなことはしたくねェ」
「……じゃあ、私も。実弥さんの足を引っ張るようなことは言いたくないです」
「強情な女」

 くつくつと喉奥を鳴らすと、首筋に顔を埋めてくる。それがくすぐったくて体をもぞもぞと動かしていると、暴れるなと言わんばかりに強く抱きしめられる。

「実弥さん。私、三月末までは――」
「高校生なんです、だろ? ンなことは分かりきってんだよ。だから堪えてきたってのに、テメェは人の気も知らねェで」

 実弥さんの低い声が壁に当たって、私の耳へと入り込み、脳を痺れさせる。

「言えよ。ここに溜めてること」

 腹を這う手に、体がぴくりと反応する。

「言え」

 そう囁かれると、切なげな息が漏れてしまった。吐息だけではない。目から、涙が一つこぼれた。

「帰らないで」

 うわ言のように呟くと、もう気持ちは抑えられなかった。体を反転させて実弥さんと向かい合うと、

「まだ、帰らないで。一緒にいてください」

 と、彼の言葉も待たずに唇を押し当てた。今日帰ってしまったら、次にまたいつ会えるのか分からない。だって、大人はみんな忙しい。実弥さんをこの浴室に閉じ込めておきたい。そんな危険な思想すら湧いてくるほど、不安や寂しさで押し潰されそうだった。この道を選んだのは自分なのに。私のためを思って何も言わなかった実弥さんの優しさを無駄にしたら、ダメなのに。
 実弥さんは私の頬を両手で挟むと、唇を離し、額を重ね合わせる。

「帰らねェから安心しろ」
「……ずっと?」
「さすがにそれはできねェが、毎月会いに来る」
「毎週じゃなくて?」

 実弥さんは困ったように笑うと、がしがしと頭を撫でてくる。

「ちょ、っと、犬じゃないんですよ……!」
「犬にこんなことしねぇよ」

 額、瞼、鼻、頬、そして唇へとキスを落とすと、実弥さんは私の肩に顎を乗せる。

「実弥さん」
「なんだァ」
「何考えてるんですか?」
「……別に」
「言ってくださいよ。ここに溜めてること」

 実弥さんの真似がしたくて、笑いながらそのお腹へと手を伸ばすと、ふと何かが当たる。あっ、と思ったときには、もう顔がじわじわと熱くなってくるのを感じていた。弱ったようにため息を吐いた実弥さんは、私の手を湯の中から引き上げ、浴槽の縁に置く。

「そんなに積極的になんのは四月以降で頼むわァ」
「ち、違います! そういう意味では――」
「抱きてェ」

 まっすぐに言われ、息が止まってしまう。蛇口から滴り落ちる水の、水面を叩くちゃぽんという音だけが響く。

「考えてたことはそれだ。なんか文句あるかァ」
「……ないですよ?」

 今度は実弥さんが息を止める番だった。明らかに動揺したように瞬きを繰り返すと、早口で言う。

「いや待て、考えてただけで何も――」
「いいですよ。私は大丈夫です」
「……ほんっとにテメェは」

 参ったとでも言うようにため息を吐くと、また額をコツンと合わせた。

「もう少し堪えろ。あともう少しだ」

 四月になったら、とらわれるものは本当にもう、何も無くなるから。実弥さんの言葉に、私は頷いた。

「そんときは」

 声色が変わる。脳を痺れさせるようなあの、甘く低い声。耳からねじ込まれた次の言葉に、私はしばらく放心してしまった。

「覚悟しとけよ」

 不安や寂しさに押し潰されそうになることは、きっとこの先もあるのかもしれない。それでも今この腹に溜まっていたものは全部、ぜんぶ洗い流された。ふやけきった手のひらを重ね合わせて、意識が遠のくまで長風呂をしたので、その後どうやって眠りについたのかは覚えていない。でも、ひたすらに優しいぬくもりが体を包んでくれていたことだけは、覚えてる。
 それから実弥さんは毎月といわず、本当に毎週末のように会いに来ることになるのだが、それはまた別の話。



- 完 -

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