17.黒のマフラー


 靴の下で雪が啼く。そして一歩一歩ブナの木に近づけば近づくほどに、涙の粒が頬を滑り落ちていく。ホグワーツの湖は凍り、ひっそりと静まり返った禁じられた森に住まう生き物も、寒さに身を小さくさせているようだった。湖のほとりに生える一本のブナの木もまた、たっぷりと身に纏っていた葉を冬に脱がされ、寒々しい格好をしてこの冷たい風に耐えているようだった。
 は涙で霞む視界の中でただ一点を見つめ、今ようやくブナの下に辿り着いた。マルフォイは黒のマフラーを巻いて湖に面して座っていた。何も言わず、ただ遠くの方を見つめている。は、ハグリッドの小屋の方に面して腰を下ろした。縋りつきたいと強く思った背中が、このブナの木を隔てた向こうにある。そう考えると、この木が羨ましく思えた。彼のぬくもりが伝わるだろうか、と木に寄り掛かってみた後で、私はどうかしていると思った。それと同時に、温かくもなんともないブナの木にまた涙が溢れた。こんなにも寂しく、こんなにも人のぬくもりが恋しいのはきっと、寒いから。ただ、寒いだけだから。

 どれぐらいの時間が流れただろう。ようやく口を開いたのは、の方だった。

「……私、マルフォイ君。整形なんか、してないから……ね」

 もう遅いのかもしれない。昨日のうちに、パーキンソンから“あの子は整形よ”と脳に刻み込まれるほどに言い聞かされたかもしれない。いや、きっとそのはず。信じてくれなくてもいい。それでもマルフォイには、自分の口から本当のことを言っておきたかった。

「ああ、知ってる」

 一瞬、返ってきた言葉の意味が理解できなかった。

「知ってる……?」

 は呟くようにしてそう言うと、木の裏へ顔を覗かせた。そこにはマルフォイが、しまった、というような顔をして唇をきつく結んでいた。はとっさに頭を過ぎった言葉を口にした。

「ねえ、やっぱりマルフォイ君が、あのときの男の子なの?」

 マルフォイは違うと言っていた。しかしはあの日、監督生の浴室で彼の体に傷痕が残っているのを見たのだ。でも、ハーマイオニーの言うとおり本人が否定しているのだから本当に人違いかもしれない。偶然同じところに同じような傷がある全くの別人。じゃあ、今の言葉は?思わず口から出てしまった風な“知ってる”という言葉にはいったい、どんな意味が込められているのだろうか。

「……マルフォイ君、教えて」

 マルフォイの目がを捉えた途端に、胸が鳴った。はそれに思わず俯き、視線を逸らした。そのすぐ後で、なぜ彼の目から逃げたのだろうと不思議に思った。クィディッチ試合のとき、あんなにも長くマルフォイと見つめ合っていたのがまるで嘘のようだ。
 もう一度、ゆっくりと顔を上げてみるとそこにはマルフォイが真っ直ぐにを見ていた。顔の熱が上がるのを感じながら、今度は湖の方に視線を動かすに、マルフォイが言った。

「もし仮に、僕がおまえの言うその男だとしたら一体どうするっていうんだ?」

 冷たい風が吹き、黒髪が靡く。大広間から飛び出してきたのでマフラーも手袋も、ローブさえ羽織っておらずに寒さが身に染みたが、はその寒さも、先ほどから続く胸の鼓動も、何もかも忘れたかのようにマルフォイを見た。

「そいつを見つけることに、何か意味でもあるのか?」

 マルフォイの声が灰色の空に消えたとき、雪が降ってきた。頬に落ちた雪が熱ですぐに溶けたのを指で確かめたマルフォイは再びを見ると目を細めた。一方のは雪が降ることにも気がついていないようで、小さく何かを呟いていた。

「それは、自分でも……分からない、の。でも……」

 の白い頬にある雪が溶けていない。マルフォイはそれに気をとられていた。そうして、ゆっくりと手を伸ばした。
 
「でも、会いたいの。また―――

 は言葉を切った。頬から伝わるぬくもりに、じわりと何かが溶けたようだった。マルフォイの指が、そっとの頬に触れていた。しかしマルフォイはすぐにはっとしたように我に返り、その指は離れ、熱の余韻だけが頬に残った。

「まるで死人みたいだな。こんな真冬に防寒具ひとつ着けないで、馬鹿じゃないのか」

 マルフォイはぶっきら棒にそう言うと、急いで立ち上がった。雪を連れた風がふたたび吹く。マルフォイの頬についた雪はすぐに姿を消したが、ほんのりと色づいたの頬に腰を下ろした雪が溶けてしまうのもマルフォイと同じぐらい早かった。がぼうっとマルフォイを見ていると、突然何かが飛んできて視界が真っ暗になった。

「十ガリオンで貸してやる」

 が目を覆ってしまった黒のマフラーを外したとき、マルフォイはすでに城に向かって走っていた。は彼の姿が消えると、マフラーに目を落とした。それは凍えた手に染みるほど、温かい。
 それをゆっくりと首に巻いたとき、今が冬だなんて忘れてしまった。空から落ちる雪が花びらに見え、春の香りがした。ぬくもりに満たされた心から、何かが溢れ出してきそうな思いさえした。






 クリスマスまでの数日間、は自分の顔を見るなりヒソヒソと囁き合う生徒たちの声や、パーキンソンらの嫌味も気に留めずに過ごすことができた。毎日図書館に通い、フリットウィック先生のところにはもう二十回は質問をしに行った。そして友人たちへのプレゼントをきちんと手作業でラッピングし、クリスマスカードも書いた。(夜中にハリー宛のカードに似顔絵を書いていたら、ドビーが現れ自分がハリー・ポッターさまの絵を書きますと名乗り出たので任せてみると、まるでテナガザルのようになった。)
 そんな充実した休暇の中で、は貸してもらっていたマフラーをマルフォイに返そうと思ったがなかなか機会がなく、いつもマフラーを鞄に、そして十ガリオンをローブのポケットに入れて持ち歩いた。


 クリスマスの朝。が目を覚ますと、ベッドの脇にはプレゼントが積まれていた。こんなに多くのプレゼント箱が自分の元へ届くなんて、まるで夢のようだった。はどきどきと鳴る胸を落ち着かせ、一番上にあったピンクのリボンの箱を手に取ってみた。それはハーマイオニーからのもので、中には小さな白薔薇のピアスが入っていた。カードには「私とお揃いよ」と書いてある。はにっこりとカードに笑むと、鏡を見ながらさっそく耳につけてみた。ハーマイオニーも今つけてるかな、そう思いながら次の箱を開けた。ロンは、サンタのミニチュア人形をくれた。サンタのでっぷりとしたお腹をくすぐると高らかに笑うというユニークな仕掛けになっていて、はサンタと一緒にしばらく笑っていた。ハリーは“あの癒者この癒者”という本を贈ってくれた。ウィーズリー夫妻からは夫人お手製のパイと、手編みの手袋だった。ジョージはクリスマスお菓子セットを、そしてフレッドからは華奢な猫と赤い小さな花のついたネックレス。そして驚いたことに、シリウス・ブラックからもプレゼントが届いていた。それはハートのロケットで、カードには「愛する者の写真を入れるといい」と書いてあり、はなぜだか恥ずかしくなったが、母はきっと、彼らしい贈り物ねと言うだろうと思い、それを大事にベッド脇の小机にしまった。最後に両親からのプレゼントを開けてみると、中には紙に包まれた四角いものが入っていた。不思議に思ってカードを読んでみる。“きっと、あなたを助けてくれるから。”

「いったい、何?」

 それは教科書二冊分ほどの大きさで、は紙を丁寧に外した。すると出てきたのは、銀毛の巻き髪の魔女が上品に椅子に腰掛けている肖像画だった。それを見た途端、は驚いて声を上げた。

「ディリス…大おばあさま?」

 それはの先祖にあたる、ディリス・ダーウェントだった。彼女はが生まれる約三百年も前の人だったので、もちろん直に会ったことはないが、家にはディリスの肖像画がありもよく話をしていた。

「あらまあ、私の可愛いじゃないの。メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス、大おばあさま」

 ディリスは自慢の巻き髪を揺らすと、あらまあ!と言った。

。私のことはいつも、大おばあさまじゃなくて、ディリスさんと呼んでと言ってるでしょう?」

 ディリスいわく、その方が若々しく聞こえるらしい。は一言謝ると、肖像画を小机の置いてある壁に掛けた。

「でもディリスさん、なぜお父さんとお母さんは肖像画を私に?それも、クリスマス・プレゼントとして……」
「あら、最高のプレゼントでしょう?何か不満でもあるの?私の可愛い

 が慌てて否定すると、ディリスはふふっと笑った。

「あの二人はあなたに友人が出来たことをとても喜んでるわ。でも、出来るのは友人だけとは限らないでしょう?」

 そう言うと、ディリスは額縁にもたれ掛かり、にっこりと笑ってみせた。

「あなたは私に似てとても愛らしいから、変な虫が付かないように見張るよう頼まれたのよ」
「え?」

 目を丸くしたに、ディリスはくすっと悪戯に笑った。

「というのは冗談。どう?驚いたでしょう?なにしろ長旅だったから、私も少し気が立ってるみたいだわ。いけない、いけない」

 そう言うと、肘掛け椅子の脇に置かれたティーカップを持ち、紅茶を一口飲んだ。そうしてカップを片手にゆらゆらと揺らしながら続ける。

「本当はね、仲介人みたいなものよ。あなたに何かあったり、辛くて悲しいときは私を通じて、日本の両親の元へいち早く伝えることが出来るから」

 そこでふうっと息をはくと、

「あの子たちったら、あなたが可愛くて仕方がないみたい。毎日。明日もきっとよ」

 そう冗談を言い、カップに砂糖を加えてかき混ぜる。

「でも、なぜ今更?」

 ディリスの手元をじっと見ながら、は尋ねた。そんなに両親が私のことを気にかけているなら、ホグワーツに入学するときからディリス・ダーウェントの肖像画を贈っていてもいいはずなのに。

「ああ、。友が出来ればその分揉め事も生まれるわ。それにあなたは今、前のように自分の持つ魅力を隠していないから、すでに妬まれたりしているんじゃないの?いじめられてない?平気なの?そうね。私もその昔、多くの女性から嫉妬を買ったわ」

 ディリスは遠い昔のことを追憶している風に、ぼうっと遠くを見ている。ところがすぐに我に返ると、ふたたび紅茶を一口飲み、少しの間お喋りな口を閉じて、何か考え込んでいるようだった。

「でも、まあ、そうね。やっぱり、そこが一番大きいのかもしれない。困った親ね、まったく子離れ出来ていないわ」
「ディリスさん?何のこと?」

 が首を傾げると、ディリスはそれを愛しそうに見て、ゆっくりと言った。

。どんなに優秀な癒者にも、処方せんが分からない病があるのよ。この私でさえもね」
「どんなお癒者さまにも、ディリスさんにも治せない病気?」

 興味深げに聞くに、ディリスは頷いた。そしてもっと近くに寄るように手招きをすると、

「それはね、、恋愛よ」

とひっそりと囁き、笑んだ。は驚いたように肖像画の中のディリスを見ると、顔を赤く染めた。

「お父さんとお母さんったら……」
「あらまあ、それは違うわ」

 ディリスは首を横に振りながら、穏やかに言った。

「悪く思わないであげて。ただ、娘の初恋に立ち会いたいだけなのよ」

 大祖母の一言に、思わず両親の顔が目に浮かんだ。そうしては頷くと、ディリスは満足そうに微笑んだ。そのすぐ後で、ディリスはの見えない額縁の外をじっと見ると、納得したように肘掛け椅子から立ち上がった。

「ただ、私も忙しくてなかなか傍に居てあげられないかもしれない。ほら、今もアルバスが校長室で私を呼んでいるわ」

 にはダンブルドアが大祖母を呼ぶ声など聞こえなかったが、ディリスには確かに聞こえているらしい。「はいはい、今行きますからね」と返事をしている。

「じゃあね、私の可愛い。最後にもう一度、メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス、ディリスさん」

 そうしてディリスは額縁の外へと消えた。





 その日の夜は、大広間で先生方と一緒にクリスマス・ディナーをとった。五年生は、ネビルのように今日だけは家に帰って家族とクリスマスを過ごしている生徒が多いらしく、パーキンソンの姿もなかった。
 夕食の後、はグリフィンドール談話室へ向かって歩いていた。このクリスマス休暇は、確かにハリーたちが居なくて寂しかったが、その分良いこともあった。今まで分からなかった呪文学の理論も先生のお陰で理解できたし、素敵なプレゼントを貰えたし、大祖母の肖像画が部屋にやって来てくれたし、今日は一日パーキンソンの顔を見ずに済んだ。

「それに、マルフォイ君とも―――

 気付いたら頭の中で考えていることを口に出してしまっていて、は慌てて両手で口元を覆った。何て私は間抜けなんだろうと思い、一人小さく笑っていると、靴音が聞こえてきた。

「だからおまえはいつまでたっても間抜けなんだ、クラッブ」

 聞き覚えのある声に、は思わず振り向いた。すると廊下の向こうから、こちらへ向かってマルフォイとクラッブ、ゴイルが歩いてくる。は借りていたマフラーのことを思い出し、今日こそ返そうと思い、

「マルフォイ君!」

と声を掛けた。しかしその後で、自分が今マフラーを手に持っていないことに気付いた。鞄は寮に置いてきたままだ。しかし、マルフォイはすでにに気付いていて、廊下の向こうで足を止めていた。はとりあえずお金を渡そうと思い、小走りでマルフォイの元へ向かった。

「マルフォイ君、これマフラー借りたから。十ガリオンだったよね?」

 そう言い、ローブのポケットからガリオン金貨を十枚取り出すと、手のひらに乗せてマルフォイに差し出した。クラッブは十ガリオンに目が釘付けになっていて、ゴイルは半ば呆れているようだった。一方、目を細めるマルフォイには慌てて付け加えた。

「あの、マフラーは今寮に置いてて……何だったら私、今から急いで取ってくるけど…」
「おまえは馬鹿だ、本当に」

 え?とは間の抜けた声を漏らした。それにマルフォイは口元をひくりとさせたかと思えば、クラッブとゴイルに先に行くように言った。二人が歩いていくのを見ながら、マルフォイは言う。

「マフラーを貸したぐらいで十ガリオンも取るほど、僕は金に困ってない」
「え、でも……」
「それに僕はもう新しいマフラーを買ったんだ。あれはもう要らない」
「そんなの、もったいないよ。あのマフラーすごく温かいし……」

 マルフォイはの横を通り過ぎ、少し歩くと足を止めた。

「じゃあ、あのマフラーはおまえに恵んでやる」

 え?と先ほどよりも間抜けな声を響かせたに、マルフォイの肩が小刻みに震えた。それを見てはどうかしたのだろうか、と心配そうにマルフォイの顔を覗き込んだ。一瞬だけ、はマルフォイが笑ったのを見た気がした。しかしが覗き込むとすぐに真顔に戻ってしまったので、まぼろしなのかもしれないと思った。そしてすぐに、マルフォイがあのマフラーをくれる、と言ったことを思い出し、今度はの体が震えるようだった。

「本当に、貰ってもいいの?」

 マルフォイは何も答えずに、再び歩き始めた。その背中に、は言った。

「ありがとう、マルフォイ君。メリー・クリスマス」

 寮に戻ると、鞄から黒のマフラーを取り出し、暖炉の燃えるこの部屋でそれを首に巻いた。このマフラーこそ、にとって最も素敵なクリスマス・プレゼントだった。






(2007.11.11)