21.氷上のひと


「もうマルフォイに近づかないで」

 目が覚めたばかりで夢と現実の間をさまよっていたも、この言葉を聞くと瞳の輪郭をはっきりとさせ、戸惑ったようにハーマイオニーの顔を見た。

「今朝の日刊予言者新聞よ」

 が理由を聞こうとする前に、ハーマイオニーは脇に挟んでいた新聞をベッドの上に置いた。は不安そうに唇を結んで、それに手を伸ばした。
 が新聞に目を通している間、ハーマイオニーは落ち着かないように歩き回っては、ちらちらとの様子を伺っていた。新聞には、かつてのヴォルデモートの僕であった囚人たちが集団脱獄をした、と書かれていた。その死喰い人たちの写真までじっくりと眺めた後で、は顔を上げてはっきりと言った。
 
「マルフォイ君は関係ない」
「大有りじゃない!」

 ハーマイオニーはまるで、がそう言うことが分かっていたというように、間髪入れずに返した。そして興奮で耳まで赤くしたハーマイオニーは新聞紙を引ったくり、の目の前に広げた。

「このレストレンジって女は実の伯母なのよ?父親は、死喰い人なのよ?」

 厚ぼったい瞼の下から冷ややかな目でこちらを睨む女の写真を指し、ハーマイオニーはなおも息巻く。

「あいつはこの記事を読んで大喜びしてるに違いないわ!」
「でもマルフォイ君は死喰い人じゃない」

 鼻先に付きそうなほどに迫った新聞を払って、が冷静に言った。これほどに取り乱したハーマイオニーの姿を見るのは初めてだったが、はその迫力に押されて首を縦に振ったり、困惑して泣き出したりするような素振りはみせない。そんなに面食らったハーマイオニーは周囲を見渡して、まだベッドの中で寝息を立てているルームメイトにようやく気が付くと、今度は声のボリュームを落として諭すように言う。

「誰もが恐れる人物に取り入って、その権威を借りて闊歩しているような親子よ。マルフォイが死喰い人じゃなくとも、縋っているものは父親やその新聞に載ってる囚人たちと同じ、ヴォルデモート卿なのよ?」
「マルフォイ君はヴォルデモートに縋ってなんかいない」

 が強く言ったので、ハーマイオニーの唇はとうとう震えだし、目の淵はピンク色に染まり、涙が滲みはじめた。

「どうして分かってくれないの?」

 涙を零すハーマイオニーの姿にさすがのも動揺し、何か言葉をかけようとするがどう声を掛けるべきか分からず、結局黙り込んでしまった。ハーマイオニーのすすり泣く声と、ルームメイトたちの心地よい寝息だけが聞こえる。

「一体、あなたがマルフォイの何を知ってるっていうの?」

 この一言で、の心にはざわざわとした何かが広がった。それは一気に体中へと行き渡って、握り締めた拳が震えた。

「知ってるよ」

 何かを抑えるかのように、拳と同様に震えるの声に、ハーマイオニーは思わず顔を覆う手を退けた。そして目が合った彼女をが睨みつける。

「マルフォイ君の良いところは、私の方がずっとよく知ってる!」

 が怒鳴ったせいで、ルームメイトの一人が飛び起きてしまった。目を丸くしたハーマイオニーだったが、いったん視線を逸らして唇を噛みしめると、再びを見た。その目かは次から次に涙が溢れ出し、ハーマイオニーの顔は悲しみに歪んでいた。

「どうして分かってくれないの」

 力無くそう言うと、よろよろと扉の方へ歩いていき、取っ手を回してハーマイオニーは部屋を出て行った。扉が閉まるまで彼女を目で追っていたルームメイトは、一体何が起こったの、と言う風にを見た。しかしはその視線に気づかず、しばらく自分の拳を見つめたままだった。「ねえ?」と、堪らずルームメイトが声を掛けると、

「起こしてごめんね」

と、引きつった笑顔で謝り、ベッドの中に潜り込んだ。そして枕に口を押し当てて、声を殺して泣いた。





 体調が悪いからとルームメイトに嘘をつき、その日の授業は全て休んだ。一人きりの部屋に居ると、ハーマイオニーのすすり泣く声がどこからか聞こえてきそうで落ち着かなくなり、雪深い校庭へ出ることにした。制服に袖を通し、ローブを着て、首にマフラーを巻く。マルフォイから貰った黒のマフラーではなく、グリフィンドール寮のものだ。ハーマイオニーの言ったことが頭を過ぎって、今はどうしても巻くことが出来なかった。
 一歩外へ出ると、冷たい風が容赦なく頬を刺した。しかし、頭の中で渦巻いていた様々なものが一気に凍り付いてくれ、少し胸が軽くなった気がした。もうこのまま何も考えずにいられたらいいのに。ざくざく、と雪を踏み鳴らしながらそう思った。
 目の前に広がる湖は凍っていて、風が吹くとその氷の上を雪煙が舞った。

「スケートが出来そうだなあ」

 日本に居た頃、冬の寒い日には近くの小さな池に氷が張って、父親と一緒にツルツルと滑っていたことを思い出した。たまに氷の薄いところがあって、お父さんはよく落っこちてたっけ。は氷の上を歩いてみたいという衝動を抑えきれず、湖の近くまで行くと、恐る恐る片足を乗せた。

「あ、丈夫」

 さすがにあの池ほど脆くはなく、むしろどれほどの深さまで凍っているのかと思うほどに丈夫な氷だった。は安心して残る片足も氷上に乗せ、慎重に歩く。片足がツルっと滑りそうになっては、もう片方の足で踏みとどまる。そのスリルが癖になり、はひとりで「おっと」とか「うわっ」とか声を上げながら、しばらくそれを楽しんだ。

「いい加減にしろよ」

 不意に聞こえた声に驚いたは、バランスを失い、短い悲鳴をあげて滑った。固い氷に頭を打ち付けたときの鈍い痛みを覚悟していたが、いつまで経っても痛みに襲われないことを不思議に思い、瞑っていた目を開けた。見れば、自分の体は倒れるどころか、氷上に浮いていた。

「――あ」

 今しがた声の聞こえた方に顔を向ければ、そこには杖を構えたマルフォイがいた。の体はふわふわと湖から離れて、マルフォイの元へと引き寄せられていく。次第に近づいていくマルフォイから顔を逸らして、鼓動が速くなった心臓を落ち着かせようと深呼吸するが、そうしている内に呪文は解かれ、の体はやわらかな雪の上に落ちた。

「あ、ありがとう」

 雪に埋もれたままで、マルフォイを見上げてお礼を言っただが、その頬はほんのりと赤くなっていた。そして少しの間ためらうように目をきょろきょろと忙しなく動かした後、意を決したように口を開いた。

「マルフォイ君……もしかして、ずっと見てた?」
「お前が勝手に僕の視界に入ってきたんだ」

 ゆっくりと体を起こしながらも、恥ずかしくて今すぐこの場から消えてしまいたかった。マルフォイは湖の方に向かって腰を下ろしていたらしく、ブナの木のふもとの雪は踏み慣らされていた。

「授業はどうしたんだ」

 再びそこへ腰を下ろしたマルフォイは、の顔を見ずに訊いた。

「マ、マルフォイ君こそ」
「お前に教える気はない」
「じゃあ、私だって教えない」

 マルフォイは眉をしかめてを見上げると「真似するな」と言った。なぜだかそれが可笑しくて、はクスクスと笑った。マルフォイは気を悪くしたらしくそっぽを向いたが、その前にちらりとの首元を見た。しかしはそんなマルフォイの一瞬の視線に気づかなかったようで、

「私も座ってもいい?」

と訊くと、マルフォイの返事も待たずに彼の隣に座った。沈黙が流れ、その中ではハーマイオニーの言葉を思い返していた。マルフォイには近づくなと言われたが、は今こんなにも近くに腰を下ろしている。全てがどうでもいいことに思えた。マルフォイはその場から去ろうとするわけでも、彼から口を開いて会話をはじめるわけでも、もちろん攻撃してくるわけでもなく、ただそこに座っている。マルフォイ君は何も悪くないのに、とは唇を噛んだ。それよりも彼は、他の誰にも想像が出来ない重いものを背負っているように思えた。

「憎い?」

 突然の言葉に、マルフォイは思わずと目を合わせた。

「お父さまを悪に縛り付けるヴォルデモートが、憎い?」

 は自分の意思とは関係なく口を突いて出る言葉に、内心驚いていた。しかしマルフォイが目を見開いて、「そんなことを口にするな!」と声を上げ、怯えた様子で周囲に目を走らせる姿を見て、今度は自分の意思で口を動かした。

「つらい?」

 マルフォイは眉間に深い皺を寄せてを睨んだ。しかしは構わずに続ける。

「息子ならどんな父親でも認めなきゃいけない、誇りに思わなきゃいけないって、自分に言い聞かせるのは……」

 何かがこみ上げてくるのを抑えようとしたが、すでにの目には涙が滲んでいた。

「もう、つらいでしょう?」

 今朝の新聞を、マルフォイはどのような気持ちで読んだのだろう。今の目の前にいるマルフォイは、父親の仲間とされる死喰い人の脱獄に喜んでいるようには見えなかったし、ましてヴォルデモートに縋るなんて――。

「さっきから何なんだよ。勝手なことばかり言うな」

 マルフォイは少し動揺しているようだったが、それを隠すように立ち上がり、に背を向けた。しかしは昂った気持ちを抑えることが出来ずに、自分も立ち上がって言った。

「どうして悪人ぶるの?私にはどうしてもマルフォイ君やお父様が悪い人には思えない。マルフォイ君は本当は、やさしい人なのに」

 すぐに走り去るかと思った。しかしマルフォイはを振り返って何か言おうと口を開いたが、すぐに我に返って、

「狂ってる」

と吐くように言うと、ブナの木の下にを残して去っていった。
 彼はここで何を考えていたのだろう。は先ほどまでマルフォイが座っていたところに腰を下ろして、木に背を預け、凍った湖を眺めながら思った。きっと何か、授業を休んでまで考えるようなことがあったのだ。それともと同じように、混乱した頭を落ち着かせるためにここへ来たのかもしれない。
 マルフォイの残した足跡に視線を落とし、ぼんやり眺めながら、はひとつ分かった気がした。マルフォイはきっと、こうやって一人ブナの木の下にいるときはいつも、何かと葛藤しているのだ。




「あいつはグリフィンドールで、マグルの混血だ」

 マルフォイは暖炉前のソファに座って、再び言った。向かいのソファにゆったりと座るセオドール・ノットは、二度目のその言葉でようやく口を開いた。

「スリザリンにも混血はいる」

 談話室には二人のほかに三年生の女子生徒が二人、額をつき合わせて夢中になって話し込んでいるだけで、生徒はほとんど居なかった。この二人の女子生徒も、胸に監督生バッジを光らせたマルフォイがもう部屋に行くように言うと、素直に従った。

「でもポッターの仲間だ」

 二人が女子寮への階段に消えていったのを横目で確認して、マルフォイは言った。ノットはマルフォイの幼馴染で、彼が完全に気を許している唯一の人だった。一匹狼のノットは普段、クラッブやゴイルのようにマルフォイと行動を共にしないが、二人はよくこうして誰も居ない談話室で話すことがあった。
 ノットは、そう言った後で自分の手元に視線を落としたマルフォイを見て、「前から言おうと思ってたけど」と再び口を開く。

「息子だからって、もう無理に父親に合わせる必要は無いんじゃないか?お前は死喰い人じゃない」

 さらりとそう言ったノットにマルフォイは耳を赤くして、二人の間のテーブルに広げられたものを指した。

「同じ死喰い人の父親を持って、よくもそんなことが言えるな!それもこんな時に!」

 日刊予言者新聞に目をやったノットだったが、その視線を再びマルフォイへ向けると首を横に振り、なおも冷静に言う。

「俺だったらきつい。親父が死喰い人だからと言って、色んなことに規制をかけて、本当の自分を抑えるのは」

 マルフォイが何か言おうとするのを手で制し、続ける。

「親父にはもちろん感謝してる。男手一つで俺を育ててくれたからな」

 一瞬、ノットは遠い目をして何かを見ているようだったが、すぐに視線をマルフォイに戻した。

「でも、俺は俺だ」

 そう強く言ったノットを、しばらく驚いたような目で見ていたマルフォイだが、次第にその目は力を失っていき、ついに伏せてしまった。

「僕はきっと、許されない」
「……誰にだ。ルシウスさんにか?それとも、にか?」

 ノットの問いにマルフォイは返事をしなかった。ただ、俯いたまま膝の上で手を握り合わせている。

「僕はどうすればいいんだ……」

 それはほとんど聞こえない声だったが、ノットはしっかりと聞き取ってすぐに答えた。

に、すべてを話せばいい」

 マルフォイは顔を上げて、正気か?という風にノットを見た。ノットは腕組みをして頷く。

「お前は難しく考えすぎだ。俺たちはまだ十五のガキなんだぞ。自分に素直であることが許されるし、そうあるべきだと思う」
「……お前に言われたくない」
「俺が言わなきゃ、誰がお前にこんなこと言える?」

 うっすらと微笑んだノットは立ち上がって、伸びをした。

「そろそろ寝るよ。明日は授業に出ないと、そのバッジに笑われるぞ」

 マルフォイは眉根を寄せて身動き一つしなかった。その横を通るとき、ノットは足を止めて彼の肩に手を置いた。

「彼女は許すさ」

 穏やかな声でそう言ったノットは、最後にマルフォイの肩をトン、と叩くと部屋へ戻っていった。
 マルフォイはソファに深く腰を埋め、シャンデリアの向こうの天井を見上げた。この談話室の真上にある湖でが無邪気に笑いながら一人で遊んでいた。そのことを思い出すと、自然とマルフォイの頬が緩んだ。
 彼女は許すさ。ノットの言葉が再び耳に蘇ると、マルフォイは天井から目を離し、テーブルの上の新聞を睨んだ。暖炉の薪が燃えていっそう火の勢いが増す。マルフォイはしばらく唇を噛んでいたが、もう一度天井を見上げた後、意を決したように立ち上がった。そして談話室の隅にある机の上で、そこに置いてあった羊皮紙にペンを素早く滑らせると、それを握って地下牢を出た。






(2009.4.8)