22.ウィーズリーの双子


 図書館の閉館は午後八時。七時五十九分の秒針が十二を打つと同時に、マダム・ピンスは館内に残る生徒たちを容赦なく追い出した。今日一日の大半を図書館で過ごしたももちろん例外なく廊下へ放り出され、今マダム・ピンスによって閉められたばかりの扉を見上げてため息をついた。
 読みたくもない本を何時間も読んでいたので瞼が重いが、今は寮に帰りたくなかった。というよりも、談話室を通りたくなかった。今朝ハーマイオニーと激しく言い合ったばかりなので、顔を合わせづらいのだ。彼女と鉢合わせになる危険性が高い談話室を通らずに自分のベッドの上に姿あらわし出来たらどんなに良いだろう、とは再びため息をついた。しかし、いつまでもこの寒い廊下に突っ立っているわけにもいかず、は渋々とグリフィンドール寮へ向かって歩き始めた。
 とすれ違う生徒たちはみな、彼女を振り返ってはこそこそと囁きあう。は近頃ようやく、人々の好奇の目にさらされながら生きてきたハリーの苦悩を理解できるようになった。グリフィンドール以外の生徒たちのほとんどは、パーキンソンの広めた「整形説」を真に受けているし、囁き声の中には必ず「ゴーストレディ」という言葉が聴こえてくる。以前はどこに行くにも声を掛けられ、時には名前も知らない生徒にプレゼントを貰うこともあったが、今では誰もに近寄っては来ない。しかし、は全く気にしてはいなかった。むしろ、自分のような普通の人間が周りの人々に持て囃されていた以前の方が、を緊張させていた。だから今は、肩に乗っていた重たいものが取れたように、身が軽くなった気がする。

 開け放たれた廊下の窓から、冷たい風が流れ込み、松明の炎が吹き消された。しかしちょうどそのとき、分厚い雲に覆われていた月が顔を現し、暗い廊下を照らした。
 きっと私はハーマイオニーとけんかしたんだ。窓枠に手を当て、ぼんやりとした月の輪郭を眺めながら思った。友達とけんかをしたのは、初めてだった。

「英語で"けんか"は何て言うんだろう?」

 五年間、英語に囲まれた生活を送ってきたが、知らない単語がまだたくさんあった。ホグワーツに入学してきたころ、母親が教えてくれた英語も実生活の中ではあまり役に立たず、先生や周りの子たちが何を言っているのか全く分からずに自信を無くした。そうして、言語の壁や文化の違いから次第に塞ぎ込んでいき、気づけばいつも俯いて過ごしていた。前髪で目を隠すことで、守ってくれる気がして安心した。それによって視力も落ちたが、眼鏡を掛ければガードが一層強まったように思えた。

「懐かしいなあ」

 去年の今頃まで、下ばかりを見てこの廊下を歩いていたのだ。自分に少し自信が持てるようになったのも、こうしてあの頃を懐かしいと思うことが出来たのも、すべてハーマイオニーのおかげだ。それなのに、彼女とけんかしてしまった。
 途端に胸が苦しくなって、は目を閉じた。あそこまで言い合ってまで、自分が譲りたくなかった思いとは一体何だったのだろう。

?」

 不意に肩を叩かれ、は短い悲鳴をあげた。

「そんなに驚くなって」

 振り返ってみると、フレッドが首をかしげて呆れたように笑っていた。

「びっくりした……フレッド、一人?こんなところで、どうしたの?」
こそこんなとこで突っ立って。……どうしたんだ?」

 の頬を伝った涙の跡が月明りできらりと輝き、それに気づいたフレッドは眉根を寄せた。そう言われてはじめて自分が泣いていたことに気づいたは、ローブの袖で乱暴に拭った。

「おいおい、そんなに強く擦るなよ」

 慌てての腕を掴んでそれを制したフレッドは、の顔の高さまで体を屈めて、指先で頬を撫でるようにして涙を拭った。

「あんまり乱暴にすると、きれいな肌がかわいそうだ」

 そう言って悪戯に笑ったフレッドに、の中でなにかがあふれ出し、頬に置かれたフレッドの手を強く握り締めた。突然のことに目を丸めるフレッドに、は声を震わせて言った。

「私、もう、ハーマイオニーと友達で……いられなくなるかもしれない」

 言葉に出してみると、それが頭のなかで残酷に響き、恐ろしくなった。固く目を閉じるの頭を温かな手のひらが軽やかに叩くと、ぐるぐると渦巻くどす黒い何かがふっと消えた気がした。

「君たちがケンカしたのは知ってる。ロンから聞いた」

 ゆっくりとそう口を開いたフレッドに、は咄嗟に目を開けて、顔を見上げた。

「――"けんか"?」
「この言葉は聞いたことなかったか?言い争いして、お互いに口を利かなくなること。"ケンカ"、英語ではこう言うんだ」

 が手を離したので、フレッドは「まあ、男のケンカの場合は言葉も意味も変わってくるんだけど」と両手を握り締めて空中をパンチした。神妙に頷いたは、ふたたび不安げな目をフレッドに向けた。

「君とハーマイオニーは大丈夫。きっとすぐにまた元に戻るさ」

 が何かを言う前に、フレッドは優しくそう言うと、また彼女の頭を叩いた。そうして名残惜しそうにその手を引っ込めると、窓の外に目をやり、しばらく間を置く。陽だまりの似合うフレッドに、夜の月明りは不釣合いだった。

「ただ、気づいてないかもしれないけど、君はマルフォイのことになるとすぐ向きになる」

 フレッドの横顔を見ながらハーマイオニーのことを考えていたの胸は、その言葉でどきりとした。

「と、ハーマイオニーが言ってた。まあ、ハーマイオニーこそ向きになりすぎだと思うんだけど」

 何気ない風に言ったフレッドだったが、横目でしっかりとの反応を伺っていた。
 たしかに、マルフォイの話になると、どんなことでも気に留めずにはいられない。彼を悪く言う人がいれば、たとえそれが親友だろうと、体中を熱くさせて反論する。どうして彼を理解しようとしないのかと思えば、悔しくて涙も出る。

「……そうかもしれない、私」

 何かにたどり着く気がした。ふくろうの傷を治したとき、パーキンソンから助けてもらったとき、マフラーをもらったとき、ブナの木の下で話すとき。ドラコ・マルフォイとの全てのときを思い出しながら、もうすぐ何かの答えにたどり着くような気がした。
 フレッドはいつになく真面目な表情をしている。

「じゃあ、訊くけど」

 その声は、彼がいつも兄弟とふざけ合っているときのものとはかけ離れている。そして彼はすべてを知っているかのような目で、眉根を寄せて忙しなく視線を動かすの、今にも泣き出しそうな顔を見つめていた。

「マルフォイをどう思う?」

 フレッドの言葉が終わると同時に、羽の音が廊下に響き渡った。フレッドが急いでその音の方を向くと、羽をばたつかせながら窓枠に止まったばかりのふくろうがそこに居た。嘴に羊皮紙を加えている。

!」

 ふくろうから目を離さず、フレッドは声を上げた。その羊皮紙に、、という宛名が見えたからだ。はその声で我に返り眉間の皺を解くと、慌ててフレッドの指す方に目をやった。"恋するフクロウ"の姿を認めると、は目を見開き、急いで窓へ駆け寄った。

「私に、手紙……」

 ホッホ、と鳴くふくろうの嘴から羊皮紙を受け取ると、震える指でそれを開いた。
 『話したいことがある。明日の夜九時、七階715番教室。 D.M 』
 それは短い文だった。しかしは、最後に書かれた送り主のイニシャルまでたどり着くと、また初めからくり返し、くり返し読み返した。何度もそうしているうちに、は呟くように言った。

「私、よく分からないんだけど、フレッドは知ってる?――恋って、どういうものか」

 はマルフォイからの手紙から顔を上げて、真っ直ぐな目でフレッドを見つめた。ぶれることのないその視線から逃れるように、の手に乗る手紙に少し目を留めた後、窓枠に止まって二人の様子を片目を瞑って見ているふくろうに顔を向けて、ようやく言った。

「気づけばそいつを目で追ってたり、そいつのことで頭がいっぱいだったり、そいつを――その子を、自分だけが独占しておきたいと思ったり。……恋は、決して楽なもんじゃない。いつも自分との葛藤だ」

 そう言い終えたフレッドの表情はどこか苦しそうで、眉根を寄せて何かを堪えているようだった。そんなフレッドをあまり刺激しないように、そっか、と静かに頷いたが、体の中では心臓が高鳴っていた。あと一歩、一歩だけ進めばたどり着く。けれどそこまで来て、前に踏み出すことをためらう自分と、前へ行こうと身を乗り出す自分とがもつれ合っている。
 一方でフレッドは、床に視線を落として、先ほどのジョージとのやり取りを思い返していた。
 フレッドが今こうしての目の前にいるのは、ジョージが背中を押したからだ。先ほど、二人でこの廊下を通り過ぎたとき、一人佇むの姿を見つけて、ジョージが背中をばしりと叩いて言った。
「行ってこい!」
 何がだよ、とたじろぐフレッドに、とぼけるな、とそのわき腹に軽くパンチを入れると、ジョージは言った。
「そろそろ男を見せろよ、フレッド。姫と俺に!お前が肩を落として泣きながら帰ってきても、今晩だけは笑わないでやるからさ」
 双子で良かった、と心から思えたのは初めてかもしれない。フレッドが何も言わなくとも、ジョージにはすべて分かっていたのだ。



 一瞬、月が厚い雲に覆われたが、フレッドの声が響くと、ふたたび廊下が月明りに満たされた。
 ――ジョージは最高の相棒だ。母さん、僕らを双子として生んでくれたことに感謝するよ。

「俺は絶対に君を傷つけたり、泣かせたりしない。そりゃあ、笑いすぎて涙が出ることはしょっちゅうかもしれないけど。でも、君を悲しませて泣かせるようなことは絶対にしない。だから、俺を選んでみないか?」

 は瞬きひとつせず、ただフレッドの言葉を聴いていた。

「好きだ、

 漆黒の髪が夜風に流されて月の明かりを纏う様が、ひどく綺麗だった。本当に、は、綺麗だ。目も、唇も、指も、髪も、心も、すべてが。
 フレッドは、視界がだんだんと霞んでいくことに気づいた。柄にもない、と自分で思いながらも、それを制することは出来なかった。

「フレッド」

 腕を目元に押しあてていたフレッドの体が揺れた。見下ろしてみると、が自分の腰に腕を回している。

「ありがとう。私、ほんとうに鈍感で、ごめんなさい」

 顔を上げたの目からは涙が次から次に溢れ出ている。しかしその手にはまだしっかりと、ドラコ・マルフォイからの手紙が握られていた。

「それで、どうする?こうやって抱きつかれると、変な期待、してしまうんだけど」

 は首を振って、なおもフレッドの腰から離れようとしない。涙だけが頬を滑り落ちていく。

「私、私……」
「はっきり言ってくれてかまわないから。むしろ、言ってほしい、はっきりと」

 の肩を握って体からやさしく離したフレッドは、彼女の目を真っ直ぐに見た。黒の瞳が涙に埋もれていたが、は指でそれを払って、フレッドを見上げた。

「フレッドのことは大好きだけど、それは、恋としてじゃないの。ごめ――」
「謝らないでくれ」

 口早に言ったフレッドは、そう言ったあとで微笑んだ。ふくろうがか細く鳴き、フレッドは手を伸ばしてその羽を撫ぜながら言った。

「俺も、おまえに手紙を頼めばよかったかな」

 は目の淵を赤く染めていたが、もう泣いてはいなかった。行こうか、とフレッドが言えば頷き、ふくろうに別れを告げ、無事に小屋へ飛んで行くのを見送った後で、二人は一緒に寮へ向かって歩いた。
 フレッドは始終、ジョージとのいたずらグッズの開発状況について話しては、愉快そうに笑っていた。しかし談話室に入ってジョージの姿を見つけると、に気づかれないように兄弟に向かって首を横に振ると、一瞬だけ唇を震わせた。ハーマイオニーもその場にいて、広げた本の上から目を出してフレッドとの様子を訝しげに眺めていたが、はそれに気づかず、真っ直ぐに部屋へ上っていった。そしてフレッドも、ジョージに肩を抱かれて男子寮の扉へ消えた。








(2009.5.2)