30.覚悟


 一月が終わろうとしていた。
 O.W.Lの試験を控える五年生は、大量の宿題に追われる日々を過ごしていた。図書館だけでなく、夜更けのグリフィンドール談話室にも、髪をぐしゃぐしゃに掻き上げながらレポートに向き合う五年生の姿が目立つ。
 ハリー、ロン、の三人も、暖炉近くの机を独占して宿題をこなしていた。他にも、思い思いの場所で羊皮紙や教科書を広げる五年生で、その晩の談話室は込み合っていた。そして、そんな五年生達にちょっかいを出して愉快そうに笑うのは、ウィーズリー兄弟だ。勉強の息抜きになるのか、五年生も双子のおふざけに乗って、けらけらと笑い声を上げるのだった。
 しかし、そんな中でただ一人、その光景を気に食わない様子で見つめている五年生がいた。ザガリアス・スミスだ。彼は談話室の隅の方から双子を心底憎そうに睨んでいたが、ついに痺れを切らして「黙れよ!」と怒鳴ったので、談話室内は静まり返った。

「黙れよ、だって。どうするジョージ」
「フレッド。そりゃあもちろん、親鳥の言うことには逆らえないさ」

 課題地獄でいつも以上に気が立っていたのだろう。スミスは「親鳥」という言葉に顔を真っ赤にすると、双子に掴みかかった。途端に談話室は罵声と歓声で騒々しくなる。

「ちょっと、三人とも!」

 揉み合う三人とそれをはやし立てる群衆に見兼ねたが、仲裁に入ろうと群衆へ向かう。ロンはその隙を狙って、のレポートを書き写そうとしていた。
 しかし、目の前をさっと横切った影に目を止め、首を傾げた。

「ハーマイオニー、ジニー!一体どこへ行くんだ?」

 呼び止められた二人は足を止め、ロンの方へ振り向いた。こそこそと辺りを窺うようなハーマイオニーとジニーの様子に、ハリーも眉根を寄せる。

「黙っててよね」

 ジニーは語気を強めて、ロンとハリーにそう言った。
 何が何だか訳が分からない彼らを一瞥すると、ハーマイオニーとジニーは、太ったレディの肖像画を越えていった。




「で、マルフォイは今どこ?」
「ここよ。四階、478教室前の廊下。ちゃんと見回りをしているみたいね」
「ノットは?」
「地下牢でじっとしてるわ。寝てるみたい」

 ひっそりと静まり返った8階女子トイレで、ハーマイオニーとジニーは『忍びの地図』を広げ、ドラコ・マルフォイやセオドール・ノットの名前を辿っていた。

「勝手に透明マントと地図を持ち出して、ハリーに怒られないかしら」
「大丈夫よ。不用心にベッドの上に置いたままにする方が悪いんだから」

 強気なハーマイオニーに、ジニーはぷっと笑った。
 「じゃあ」と、ハーマイオニーはローブから小瓶を取り出す。

「うわあ、これがポリジュース薬?」

 ジニーは、泥のような液体の詰まった小瓶を手に取ると、「すごぉい」と目を輝かせた。いつかまた役に立つかもしれないと、ハーマイオニーは三年前に作ったポリジュース薬の余りを保管していたのだった。

「これを飲むと、きっかり一時間。その間だけ、私はノットに変身できる。ジニーはこの地図で、周囲の警戒をよろしくね」
「了解」

 マルフォイと、二人の問題だから放っておけ。フレッドはそう言ったが、ハーマイオニーにはとても放っておくわけにはいかなかった。自分は覚悟を持って、親友を差し出すつもりなのだ。それなのに。

「……中途半端なのが一番いけないことだと思うの」
「そうね。賛成よ、私も」

 ぶかぶかのスリザリン制服を着ながら呟いたハーマイオニーに、ジニーは大きく頷いた。
 ――まだまだ中途半端なのだ。マルフォイも、も、私も。
 



 マルフォイは、478教室前の廊下に佇み、窓の外を眺めていた。月明かりに照らされる横顔は、青白かった。

「ドラコ」

 そう声を掛けられると、マルフォイは声の方を向いて、眉をひそめた。

「ノット?なんでお前がこんなところに居るんだ」
「いや、なんだか、眠れなくて」

 自分よりひょろりと背が高いノットを見上げて、マルフォイはしばらく黙ったままだった。射抜くような目を向けられたノットは、落ち着かない様子で視線を左右に泳がせている。するとマルフォイは、ふんっと鼻で笑い、

「お前らしくもない」

と、再び視線を窓の外へ戻した。
 どう切り出せば良いものか。ハーマイオニーは、骨ばったノットの手のひらを握りながら、マルフォイとノットが日常的に話していそうな話題を考えた。とにかく、場の空気を繋がなくては。しかし、闇雲に口を開いてノットらしくないことを話せば、余計に怪しまれてしまう。人物像の掴みにくいセオドール・ノットを変身対象にしたことが誤りだったか。けれど、マルフォイが心を許している唯一の学友は、ノットしかいない。どうしたものか……

「まさか、見回りの最中に現れるとはな」

 不意にそう口を開いたマルフォイに、ノットは「まずい」という表情を浮かべた。

「真面目に仕事をしているのか見に来たのか?ノット。お前、よっぽど僕から監督生の役を奪いたいんだな」

 その言葉で、ハーマイオニーは胸を撫で下ろした。正体に勘付かれてしまったと思ったのだ。

「いや、違うさ。俺にはそのバッジ、重すぎるからな」

 そう平然と答えたつもだが、ハーマイオニーの――厳密に言えばノットの――心臓は、再び高鳴っていた。
 しかし、鼻で笑ったマルフォイに、ひとまず今の答えはノットの人物像からかけ離れたものではなかった、と安堵した。

「代われるものなら代わりたいさ。こんな夜更けまで見回りだなんて、監督生という名の雑用係だ」
「何言ってるんだよ。そのバッジは、優秀である証だろう」
「監督生なんて馬鹿でもなれるさ。ウィーズリーが良い例だ」

 ノットの眉がぴくりと動く。マルフォイは腕を組み、こちらを見ている。それはまるで、ノットの反応をうかがっているようだった。
 ハーマイオニーは怒りを堪え、言葉を絞り出した。

「今日は、お前一人なのか?パーキンソンは?」
「さあな。どこかで油を売ってるんじゃないか」

 言いながら、マルフォイは歩き始めた。ノットもその後に付いて、薄暗い廊下を進み始めた。
 背の高いノットの足はずいぶん長いはずなのに、なかなかマルフォイとの間隔が埋まらずにいた。マルフォイの歩くスピードが速すぎるだけなのだろうか。必死に彼の背を追うノットの息は、次第に上がっていった。

「お前は一体僕に何の用だ?」
「あ、いや、それは」
「なぜ今ここへ来た?どうして、僕があの廊下にいると分かったんだ?」
「あ、あー、まあ、それは」

 ひとつも息を乱さないマルフォイに、ハーマイオニーは決意した。
 そろそろ思い切っての話題を持ちかけてみよう。
 そう思って口を開こうとしたとき、突然マルフォイが足を止めた。勢いで、ハーマイオニーはその後ろ頭に顔面をぶつけてしまった。

「まあ、大方予想は出来る」

 痛む鼻を押さえながら、ハーマイオニーはマルフォイの落ち着き払った声を聞いた。

「気が焦ったんだろう。賢明な行動ではないな。“優秀”なお前らしくもない」

 じんじんと、鼻が痛む。今し方マルフォイの後頭部にぶつけたノットの鼻が。
 いや、でも、なぜ鼻をぶつけたのか。だって――ノットの背は、マルフォイよりも高かったはず。
 途端に、ハーマイオニーの額から冷や汗が噴き出した。

「なあ、そうだろう。グレンジャー」

 マルフォイが振り返ったとき、彼の背後にある窓ガラスに、目を見開く自分の姿を見た。
 変身が、解けてしまったのだ。変身してからまだ三十分も経っていないはずなのに。三年前に調合した薬だからか、効果が薄らいでしまったのだろうか。

「いつから、気付いてたの……」
「478教室の前に居るときはまだ、お前はノットだった。姿だけはな。廊下の角を曲がる程に、窓ガラスに映るノットはお前へと姿を変えていった」
「最初から、私がノットに化けてると勘付いていたんじゃないの」
「なぜそう思う」
「わざとロンのことを侮辱して、私がどう出るか試したでしょう」
「わざとではない。あれは僕とノットの日常会話だ」

 そう言い放ったマルフォイを、ハーマイオニーは睨み上げた。しかし。すぐにその視線を下げる。今日は言い争いに来たわけではないのだ。

「あなたに話があって来たの。のことよ」

 少し声を上ずらせながら言うと、マルフォイは「ああ」と短く返した。

「どんな形ではあれ、近い内にお前が僕の前に現れるだろうとは思っていた」

 マルフォイは、呟くようにそう言った。そうして、近くの教室へと入って行く。マルフォイが教室に入ってからすぐに、開け放たれた扉から松明の灯りが漏れた。
 ハーマイオニーはひとり、廊下に佇んでいた。窓の外から、禁じられた森に棲む獣の鳴き声が聴こえてくる。月明かりが落ちる廊下を見下ろすと、自分の胸元にあるスリザリンの紋章に気付いた。ハーマイオニーはローブのポケットから小さなポーチを取り出し、その中に腕を付け根まで突っ込んだ。本、羊皮紙、ブラシ、手鏡、防寒具などを手で払いのけた後、ようやく探り当てたローブを引っ張り出した。次に、スリザリンのローブを脱ぎ、ポーチの中へ押し込む。そうして、グリフィンドールの紋章が付いたローブを羽織るのだった。
 深呼吸をした後、ハーマイオニーは一歩踏み出した。長すぎるズボンの裾が、床を擦る。

「マルフォイ」

 教室の中へ入ると、マルフォイは窓際の机に腰掛けていた。 

「私は、あなた達の関係性を明確にして公言しろとは思わない。恋人だとか、彼氏や彼女だとか。あなたとの関係性は、そんな言葉では括れない気がするから」

 そこまで言うと、ハーマイオニーは胸につかえていたものを吐き出すように、間を置かずに再び口を開く。

「ただ、互いの想いを伝え合ったんだから、これからは傍に居る時間も増えると思う。そうなれば、周りもあなた達の気持ちに気づき始めるわ。当然のことよね。そしていつか、あなたの父親にも知れることになるかもしれない。私が心配なのは、その時のことよ。もしそうなった時、あなたは誓える?父親からを守るって」

 沈黙が流れた。ハーマイオニーは眉根を寄せる。

「あいつの身を守ることは、約束する」

 空気に沈めるような、深く重い口調だった。
 自分の手元に視線を落とすマルフォイに、「もう一つ」とハーマイオニーが声をやる。

「これは私からのお願いよ」

 靴音を鳴らし、裾を擦りながら、ハーマイオニーは窓際へ近付いて行った。そうしてマルフォイの傍まで来ると、言った。

「ヴォルデモートは、復活したわ。きっとこれから、ハリー達や私は、ヴォルデモートと対峙することになる。あなたがどちら側に付くかは分からない。けれど、もし、あなたがそうなった時は――を連れて行かないでほしいの」

 「」の名前を出した途端に、ハーマイオニーの声は上ずった。マルフォイは瞬きひとつせずに、ハーマイオニーを見ている。ハーマイオニーは視線を逸らし、目を閉じた。そうして耳に手を当てる。とお揃いのピアスに触れると、喉の奥が詰まり、口元が震えた。
 震えた唇をぎゅっと噛み、ピアスから手を離して、ハーマイオニーは再びマルフォイに目をやった。

「それが、あの子が自分で考えて出した答えなら、私達も受け止めなくちゃいけないわ。けど――」
「あいつは巻き込まない」

 それは、淀みのない声だった。たったその一言で、ハーマイオニーは長い間自分の胸の中に渦巻いていたものが消え去っていったような気がした。

「巻き込まない」

 今度は、自分に言い聞かせるようにそう言った。そんなマルフォイの横顔を見ながら、ハーマイオニーは必死に、震えだす唇を結んでいた。

「話はそれだけか」

 マルフォイは机から離れた。そしてハーマイオニーの横を通り過ぎ、教室の扉の方へ向かう。
 とっさに、ハーマイオニーは「マルフォイ」と声を掛けた。すると、マルフォイは足を止めてこちらを振り返った。

「いいか、グレンジャー。良い気になるなよ。お前やポッター達の前では、僕は僕の役を演じる。これまで通りの嫌な奴をだ。お前達にとって都合の悪いことをするのは、デスイーターの身内を持つ者の義務でもあるからな」

 そう言ったマルフォイは、ハーマイオニーの見馴れた、いつもの憎たらしい表情をしていた。そんなマルフォイに、ハーマイオニーは思わず笑ってしまう。

は、そんなあなたを哀れんでるわ。あなたが本当はそんなことをしたくないんじゃないかって。でも、私はそう思わないわ。あなた、私達の邪魔をすること、半ば楽しんでやってるでしょう」
「ああ、楽しいさ」
は本当に、あんたを美化しすぎてるわね。残念だけど、これからも私は、私の前にいるドラコ・マルフォイを好きにはなれないわ。けど、の前にいるときのドラコ・マルフォイを知れば、少しはマシに思えるのかもしれないわね」

 ハーマイオニーの一言を、マルフォイは鼻で盛大に笑い飛ばした。
 そのとき、廊下の方から足音が聞こえてきた。そちらに気を取られたマルフォイは、教室の外へ顔を出す。ハーマイオニーも扉の方へと歩き出した。

「まさかマルフォイとこんなに話す日が来るなんて、想像もしてなかったわ」

 廊下に誰の姿も確認出来なかったからなのか、それともハーマイオニーが話し始めたからなのか、マルフォイが教室の中へと視線を戻した。
 ハーマイオニーは、マルフォイの目の前で足を止めた。

「そして、こんなこと絶対に、口が裂けても言うものかと思ってたけど……」

 大きく息を吸い込み、深く吐く。そうした後、ハーマイオニーは言った。

を――たくさん笑わせてあげて」

 不安は拭いきれないだろう。それでも、そう言ったときのハーマイオニーの顔は、穏やかなものだった。

「保護者ヅラするのもいい加減にしろと言いたいところだが」

 そうして一息置いた後、マルフォイは言うのだった。

「覚悟はしている」

 ハーマイオニーは、この夜のマルフォイの表情と言葉を、生涯忘れないだろう。








(2013.9.18)