32.二人のはじまり


 冬の太陽に照らされたホグズミード村は、ホグワーツの生徒たちで溢れ返っていた。
 特に五年生たちの意気揚々な姿は目立っていた。彼らは、試験勉強で張りつめていたものが吹っ切れたかのように、腕には大きな買い物袋を抱え、目を輝かせながら村中を歩き回っている。
 三本の箒、ハニーデュークス、ゾンコの悪戯専門店などの人気スポットから少し離れたところにあるホグズミード郵便局。建物の前には、黒のマフラーに口元まで埋めたが、落ち着かない様子で立っていた。
 徹夜をしただが、緊張のせいか、全く眠気を感じていなかった。手に提げた紙袋の中には、ハウスエルフたちに力を借りて作り上げたお菓子が入っている。その重みが、余計にを緊張させた。

「あ、ハリー」

 向こうに見える、見慣れた丸メガネの男子生徒。黒髪の女子生徒に手を引かれ、ピンク色の喫茶店に入っていく。

「……楽しそうで良かった」

 の強ばっていた表情が、ふっと緩む。
 そこでようやく、は自分がホグズミードにいるのだと自覚をした。
 思えば、ホグワーツからここまで、どうやって来たのか憶えていない。歩いて来たことに間違いはないが、何を見て、何を考えながらここまで来たのか。
 クィディッチ競技場の横を通り過ぎたとき、練習に励んでいたはずであろうジニーやロンに、何か挨拶はしただろうか。
 ジニーが今朝、ハーフアップに結ってくれた髪を触りながら、

「思い出せない……」

と眉間に皺を寄せ、考え込む
 ジニーとロンには、どんなお土産を買って帰ろう。ジニーにお菓子、ロンには悪戯グッズを。

「いや、逆の方が良いかな?」

 そんなことを考えていると、緊張がほどけていくのが分かった。

「何が逆なんだ?」

 ビクッと肩を上げた
 振り返ると、黒のコートに、カーキ色のマフラーを巻いたドラコが立っていた。

「待たせたか」
「こ、こんにちは」

 とドラコの言葉は同じタイミングで重なった。
 慌てたは、「待ってないよ」と付け加えた。
 ドラコは、じっとを見ている。その視線に気付いたは、鼻までマフラーに埋めて、

「何かおかしいかな……」

と消え入るような声で訊く。

「いや、その逆だ」
「え?」
「行くぞ」

 足早に歩き始めたドラコに、は考える間もなく、駆け足で付いて行く。
 ドラコは人通りの多い方へ向かっている。は慌てて、声を掛ける。

「マルフォイくん」
「……何だ?」
「そっちは人が多いよ」

 ドラコは立ち止まることなく、どんどん歩いていく。
 いよいよ人で賑わう通りに出ると、はドラコと少し距離を置いて歩きはじめた。
 そんなの姿を見て、通り過ぎる生徒たちがヒソヒソと話している。その声は、の耳にも届いていた。

「見て、だわ」
「バレンタインに女ひとりでホグズミードなんて、かわいそう」

 違うのになと、は思った。
 前を歩くドラコの後ろ姿を見ながら、はふと足を止めた。
 本当はあの腕に手を回して、堂々と並んで歩きたい――
 そんな自分の想いに気が付いたからだ。しかし、かと言って、ドラコの元へ走って、その腕に掴まることなど出来ない。
 ドラコの背が、人ごみに消えていく。
 
、一人なのかい?」

 立ち尽くしていたに声を掛けてきたのは、レイブンクローの男子生徒だった。

「もし良かったら、ボクと回らない?」
「え、あ……」
「コーヒーでも飲もうよ。良い店を知ってるんだ」
「いえあの、私――」
「遠慮しないで、おいでよ」

 そう言うと、男子生徒はの腕を引き、歩き始めた。
 そんな二人の様子を、周囲は好奇の目で見ている。

「キミにはずっと前から興味があったんだ。でもなかなか話しかける機会がなくて」
「あの……」
「だから嬉しいよ。こんなラッキーなことあるんだね」
「ちょっと待ってくだ――」
「キミが整形だなんて皆は言うけど、ボクはそんなこと気にしないよ」

 不意な「整形」という言葉に、の表情は曇った。

「ねえ、あれってよね」
「一緒に歩いてるのって、ボーイフレンド?」

 聞こえてくる声に、は立ち止まった。

「――違う」
?」

 ヒソヒソと話していた女子生徒の方を向き、は一思いに言った。

「私の好きな人はこの人じゃない!」

 言われた女子生徒たちも、レイブンクローの男子生徒も、呆気にとられたようにを見ている。
 ふと我に返ったは、自分の周りに人だかりが出来ていることに気づき、恥ずかしさで消えたくなった。

「あの、手を……」

 レイブンクローの男子生徒は、それでもの手を離そうとしない。
 じっと見てくる男子生徒や、好奇の目を寄せる周囲の視線に、は恐ろしくなった。



 声が聞こえたかと思えば、の手は男子生徒から離れ、別の手に握られていた。
 周囲は、ドラコ・マルフォイとという組み合わせに、目を丸くし、言葉が見つからない様子だった。

「――マルフォイくん」
「行くぞ」

 そう言って、ドラコはの手を引き、人だかりを押しのけて足早に歩いて行く。
 レイブンクローの男子学生も、その他の生徒たちも、ドラコとの後ろ姿を呆然と見送る。そしてようやく、驚きの声が上がりはじめるのだった。
 は振り返り、「マルフォイとが」と口々に騒いでいる生徒たちを見て唇を噛んだ。

「マルフォイくん」
「離れて歩いたお前が悪い」
「……ごめんなさい。でも、まずいよ」
「何がだ」
「私たちのこと、みんなに誤解されちゃう……」

 歩き続けていたドラコは、そこで不意に足を止めた。

「誤解?ふざけるな」

 いつもよりも数段低く響いたその声に、は凍り付く。
 ドラコはの手を握ったまま、

「僕はもう覚悟ができてる」

 ドラコの目は真っすぐにを見据えていた。

「だからお前も――」

 そこで言葉を切り、ドラコはの手を離した。

「無理強いはしない」

 呟くようにそう言うと、ドラコは再び歩き始めた。
 は、離れていくドラコの後ろ姿を、立ち尽くしたままで見つめてた。
 しかし、視界が霞み、震えだした唇を噛んで、とうとう俯いてしまう。
 雪の上に残る、ドラコの足跡。それを目に映しながら、先ほどのドラコの言葉が耳に蘇る。
 覚悟。

「……覚悟って」

 足跡を目でたどっていく内に、は顔を上げる。
 少し離れたところで、ドラコがこちらを向いていた。と視線がぶつかると、ドラコは目をそらした。は足を踏み出し、一歩一歩、ゆっくりとマルフォイに近づいていく。それを見ると、ドラコは踵を返し、歩き始める。
 ドラコから少し距離を置いて、は歩いている。がふと辺りを見ると、すっかりホグズミード村を出て、湖のほとりまで来ていた。
 ドラコは当然のようにブナの木まで行くと、そこへ腰を下ろす。もドラコのすぐ傍まで来るも、座ろうとはしなかった。

「マルフォイくん、私……」

 ドラコは氷の張った湖を、遠い目をして眺めている。
 うまく言葉が見つからないは、右手に握った紙袋を見て、意を決したように「これ」と声を絞り出した。

「見た目はいびつだけど、味はマシだと思うから、良かったら……」

 ドラコは差し出された紙袋を受け取り、中を覗く。
 白い箱に赤のリボンが巻かれている。開けてみると、中にはチョコレートの菓子が入っている。

「これは、マフィンか?」
「フォンダンショコラっていう……あ、もしかしてチョコレート、苦手だったかな」
「好きでも嫌いでもない。でも、どうしてチョコレートなんだ?」
「それは、今日がバレンタインデーだから……」

 訝しげな表情でを見上げるドラコ。その顔に、は慌てて言葉を付け加える。

「私の国では、バレンタインに女の子から男の子にチョコを贈る習慣があって、それで――」
「これはお前が作ったのか」

 頷くは、ドラコの顔が見れなくなっていた。
 なぜこのタイミングで渡してしまったのか、という反省や、父親以外の男性にバレンタインのお菓子を初めて渡す緊張がこみ上げてきたので、地面の雪をただ見るしかなかったのだった。
 
「美味しい」

 はっと顔を上げた。ドラコは中から溢れ出すチョコレートに驚いたのか、手を傾けながら、急いで二口目に進む。
 その言葉と様子に、の胸に張りつめていた糸のようなものが、ふっと緩んだ。

「マルフォイくん、チョコが付いてるよ」

 かすかに笑いながら、はドラコの傍に膝をつく。
 そしてポケットから取り出したハンカチで、ドラコの顎をそっと拭った。そこで、二人の視線がぶつかる。
 「私」との口から言葉が漏れる。

「マルフォイくんに迷惑をかけたくないの。マルフォイくんのお父さんは、私がマルフォイくんに関わってほしくないと思ってらっしゃるし、だから私の記憶を――もしこのことが知られたら、また……」

 手元のハンカチに視線を落として、ぎゅっと唇を噛むを、ドラコは目を細めて見ている。
 
「私、マルフォイくんのことを忘れたくない。もう二度と、忘れたくないの」

 の声は、かすかに震えていた。

「でも、憶えててくれただろう」

 ドラコの声は、の耳に静かに響いた。
 は首を横に振り、ドラコを見上げた。そうして、手をそっと差し伸べ、ドラコの髪に触れる。

「その髪も、耳も、目も、鼻も、口も……このぬくもりも」

 は、かすかな力でドラコの手を握った。

「マルフォイくんの色んなことを知ってしまったから。だから、怖い。忘れたくないことが、もっとずっと増えるのが怖いの」

 は視線を落とした。ドラコの手を握る力が次第に強くなり、そうして、再び弱くなった。

「僕だって、もうあんな思いをするのはごめんだ」

 今度は、ドラコがの手を握り返す。

「だからと言って、他の奴らに好き勝手されるのは許せない。さっきみたいに」

 が顔を上げる。ドラコは少し照れたような、機嫌が悪いような、そんな表情で、ふいと視線をそらした。
 しかし、再びの方を見ると、もう片方の手をの手の甲に重ねた。

「この手のぬくもりが何だって? そのくらいで、僕を知った気になるなよ」

 ドラコはの首に片手を回し、ぐっと顔を近づけた。目の前まで迫ったドラコの顔に、はただ目を丸くするだけだった。

「もっと僕を知ってほしいし、僕もお前のことを知りたい」

 ドラコはの額に自らの額を合わせ、俯き加減で、言葉を続ける。

「知れば知るほど失いたくないと思う気持ちは、分かる。僕だって同じだ。だからこそ、きっとお前を守る。あのときは何も出来なかったけど、今はもう違う。信じてほしい」

 額を次第に離し、の顔を真っすぐに見据えるドラコ。

「だからお前も、覚悟を決めろ」

 風が吹き、ブナの木の枝に積もった雪が、ちらちらと二人の頭上に舞い降った。
 ドラコはに、湖の方を向くように言う。は言われるがままに体の向きを変え、ドラコに背を向ける形で、湖の方へ向いた。
 すると今度は、「目を閉じて」とドラコが言うので、は微かに頷き、瞼を閉じた。
 不意に、首にひんやりとした感覚をおぼえて、は声を漏らす。

「イギリスのバレンタインは、男も女も関係なく、物を贈るんだ」

 いいぞ、という合図なのか、ドラコに肩を叩かれ、は目を開ける。
 首元に光るネックレス。雪のように白い薔薇の、小ぶりなモチーフが付いている。

「好きな相手や、恋人に。この場合は、後者だ」
「……え?」
「なんだ」
「――恋人?」
「違うのか?」

 振り向いたは、呆然とした様子でドラコの目を見上げている。
 その目には、次第に涙が滲み始める。

「いいの?私で、いいの?」

 そんなに、ドラコは少しはにかんだように笑った。

「どこまで言わせれば気が済むんだよ」

 そこで、堪えきれなかった涙が、の目からぽろりとこぼれた。
 はネックレスを握りしめながら、

「ありがとう――マルフォイくん、ありがとう」
 
 涙ながらに、何度もそう繰り返した。
 ドラコはふっと笑うと、

「ドラコ」
「え?」
「“ドラコ”でいい」

 そう言って、の頬に片手を添えた。
 ゆっくりと二人の唇が近づく――
 そのとき、が不意に「あっ」と声を漏らし、さっと顔を背けて、

「っくしゅ!……あ、ごめんなさい」

 口をぽかんと開けたドラコに、は恐縮そうに謝る。
 ドラコはすぐにいつもの表情に戻ったが、堪えきれなかったのか、ぷっと声を漏らして、

「拍子抜けって、こういうことなんだな」

と、声を出して笑った。
 そんなドラコを見て、も笑った。


 その日、ホグズミードから城へと帰る生徒たちは、手を繋いで歩くドラコ・マルフォイとを見た。
 楽しそうに談笑しながら城へと入っていく二人の背中を、愕然とした様子で見送る生徒の中には、パンジー・パーキンソンの姿もあった。








(2015.10.20)