episode 3.失恋




 ―――あの女、こんなに足が速かったのか。
 わき腹を押さえるセブルスは、向こうの角を曲がっていったの背を追いながら思った。
 何枚もの肖像画の前を風のように過ぎ、賑わう生徒の間を縫うようにして階段を駆け上る。彼女の足がどこへ向かっているのか、分かりきっていた。そうして彼女は、ひときわ人で溢れる階で足を止め、その後ろでようやくセブルスも呼吸を整える間を得た。突然のマドンナの訪問にその場にいたグリフィンドール生たちはざわついたが、彼女の元へ駆け寄ってきた男子生徒らは、やあ、とか、グリフィンドールに何の用だい?と口々に声を掛ける。普段の彼女なら、にこりと笑んでやんわりと言葉を返すのだが、今日は違った。違ったというより、セブルスから見ればそれが彼女のいつもの姿なのだが。自らの周囲に群がっていた男子生徒を押し退けて、彼女は太ったレディの肖像画の前に進み出た。

「シリウスは、どこ」

 一語一語、はっきりと、そして力強く言った。
 今にも喰らいついてきそうなその剣幕に誰もが眉をひそめたが、レディは顔色ひとつ変えず、

「さあね。私の管理するのは寮への出入りだけであって、その先のことは務めじゃないから」

と、さも愉快そうに言った。苛立つは拳を握ったり緩めたりしながら、さらに一歩前へ進み出て、訊く。

「じゃあ彼、さっきあなたの絵の向こうに行った?」
「さっきって一体、いつなの?向こうって、寮に?それとも寮の外?」

 彼女の醸し出すオーラが、いっそう冷たくなった気がした。この太ったレディ、この女のことを嫌っているな。セブルスは直感的にそう思った。試すような目でを見ていたレディが、彼女の背中越しに何かを見たのか、表情を変えた。

「今帰ってきたみたい」

 レディの視線に気づき、彼女は勢いよく振り返った。そこにはセブルスも居たのだが、もちろん視界には入っておらず、その目は確かに向こうからやって来ている四人組の男子生徒のうちの一人を捕らえていた。
 シリウスは傍らのジェームズ・ポッターとふざけあっていたが、周囲がしんと静まり返っていることに気づき、訝しげに辺りを見た。シリウスの目がの姿を認めると、彼はとっさに、げっ、というような顔をした。

「おいおい、じゃないか。どうした?こんなとこで」

 いつもの調子でそう言ってみたものの、賢いこの男にはその瞬間にすべてが解っていたはずだった。スリザリン寮の彼女が階段を上ったはるか塔の上のグリフィンドール寮まで遥々やって来たのだから、あなたに会いたくて、なんて穏やかなものでは決してないということ。そして彼女の乱れた髪や、鈍く光る目。その目が言わんとしていることを、シリウスはすでに解りきっていた。
 しかしシリウスの傍にいる三人の男子生徒や、他のグリフィンドール生たちは何も知るはずがなく、ただ眉をひそめたり首を傾げたり囁きあったりして、この奇妙な状況をただ見守っている。

「本当なの?」

 静かに口を開いた彼女。縋るような声色だった。
 しかし彼女もまた、賢かった。だから、しばらく黙り込んだシリウスに、すべてを悟ったのだった。

「ああ」

 短く、あまりにきっぱりと答えたので、ああこの女も泣くかな、とセブルスは思った。
 けれども彼女は泣かなかった。むしろ拳をいっそう強く握り締めて、

「どうしてなの?」

 そう気丈に訊いたのだった。ここまででは、訳を知らない生徒たちは話しを掴めずに首を傾げるばかりなのだが、「シリウス!」と声を上げながら群れを掻き分けて現れた女子生徒に、勘の鋭い何人かの生徒は解ってしまったようだった。
 ローラは頬に引っ掻き傷をつけたままの姿で、対峙するシリウスとを驚いたように見た。シリウスはローラのぼろぼろの姿を見ると眉根を寄せて、次にに目をやった。罰の悪そうな表情から、あの傷は彼女がつけたものだと分かったのだ。

「そうだな。どうしてって……」

 シリウスがローラを傍らへ引き寄せると、辺りが一気にざわめき立った。

「おまえが何をしても所詮は"ホグワーツのマドンナ"で、俺には刺激のない退屈な女だったからだよ」

 彼女の拳の力が抜けるのを見た。

「でも、これは……」

 静まり返ったなかで頬を緩めていたのは太ったレディとローラだけで、そのローラの頬に付けられた血の滲む引っ掻き傷に指を這わせながらシリウスは言う。

「最高にイカしてたぜ」

 にそう言うと、痛みに顔を歪めたローラに、悪いな、とひとこと謝る。いいのよ、と頷くローラとシリウスの醸す、この状況に不釣合いな穏やかな雰囲気に、辺りの静けさは深まった。そうして、そのまま二人は冷えた沈黙の流れる群集から離れ、大階段へと消えていった。
 シリウスが立ち去るとき、一瞬、その目はセブルスを捕らえた。しかし男は嘲るような笑いを浴びせて、金髪の女の肩を抱いて消えた。あまりにも身勝手な理由であっ気なくふられた彼女は、呆然と突っ立ている。
 不覚にも、同情してしまった。しかしそれを制し、自分を侮辱した女の不幸な様子をこの目で見れてようやく気持ちが晴れた、と思うようにした。しかし、出来ない。出来なかったのだ。自分はそこまで非情になることは出来なかった。

「……見てんじゃないわよ」

 彼女は哀れむような目を向ける生徒たちを睨むと、捨てるようにそう言い放ち、震える手を握り締めて走り去った。
 肖像画のレディの声がホールに甲高く響く。「だから私はあのコが好きじゃなかった。猫被りなのよ、あのコ。前々から、肖像画のマダムたちがみんな噂してたわ」。視線が肖像画に向けられた隙にセブルスも大階段へ走ったが、もう彼女の姿はなかった。
 どうも調子が狂う。なぜ、あの惨めな姿を嘲笑ってやらなかったんだ、僕は。調子が、狂う。
 彼女の想いが書かれた本。セブルスの鞄の中に収まるたった一冊のその本に、重みを感じた。



(2008.9.9)