episode 5.ひとり




 は、顔かたちが良く勉学も飛行も出来て、ホグワーツのマドンナとまで呼ばれるような誰もが羨む完璧な女だった。しかし今、彼女からはマドンナと呼ばれていた頃の輝かしい姿は見られない。
 かつて彼女が引き連れていた女子生徒たちも、今では彼女を除け者にし、すれ違う度に囁き合って笑い声を立てたり、転ばせようと足を伸ばしたりする。はじめはそんな嫌がらせに屈することなく立ち向かっていた彼女だったが、その威勢は次第に失われていった。

「ちょっと、前見て歩きなさいよ」

 吐き捨てるようにそう言って、のかつての従者たちは耳を突くような笑い声をあげながら去っていった。体をぶつけられて倒れた彼女は笑い声が聞こえなくなるとゆっくりと上体を起こし、自分の膝を見下ろして唇を噛んだ。転ぶ度に出来るいくつものあざが、青紫に変色していて痛々しい。
 セブルスは、膝を抱えて廊下に座り込んだままのの姿を少し離れたところから見ていた。傍を通り過ぎる生徒は好奇の目、もしくは哀れむような目で見るだけで、誰一人として彼女の鞄から飛び出た教科書や羽ペンを拾おうとしなかったし、彼女を助け起こそうともしなかった。セブルスもまた、近寄って声を掛ける気はなかった。がようやく立ち上がって教科書を拾い上げている様子を見ながら、彼女が数日前に放った言葉を思い返した。
 ――馬鹿にするな、か。
 途端に、嘲笑ってやりたい気持ちと相反するものが押し寄せた。彼女のみじめな姿に何かが重なる。そう思ったとき、セブルスは頭を振り、急ぎ足でその場を去った。



 駆け込むようにして図書館へやって来たセブルスは、人気の無いテーブルを見つけ出してそこに落ち着いた。鞄を開けて中から擦り切れた魔法薬の教科書を取り出した。そしてページを捲りながら、自分はどうかしていると思った。
 おそらく、は孤独に慣れてしまったのだ。そのことは彼女の目を見ればセブルスには分かった。セブルス自身もまた、孤独に慣れた人間だったからだ。つい先日まで多くの生徒に囲まれていた彼女が、ホグワーツのマドンナが、一気に転落してしまった。今は彼女も自分と同じように人に嘲笑われ、誰の関心も得られず、孤独だ。あのが、自分と同じように。セブルスは再び頭を振った。
 ――おかしい、どうかしている。
 羽ペンをインク壺に勢いよく突っ込んだので、ペン先が折れてしまった。少し苛立ちながら杖を引っ張り出して、だらし無い羽ペンに向けて呪文を唱えようとしたとき、足音が聞こえてきた。急いでいるようなその音に、セブルスは目を細めてじっと耳を傾けていた。
 ――近づいてくる。
 図書館の常連であるセブルスはすでに、マダム・ピンスの足音を聞き分ける耳を持っていた。一歩一歩に威圧感があり、重みのあるどこか不愉快な音だ。しかしこの足音はそれと全く異なる。急いではいるようだが、どこか軽快で、耳に心地よいリズムだ。セブルスは羽根ペンから、通路の方へと視線を移した。
 足音はついにそこまでやって来たかと思えば、ぴたりと止んだ。不思議に思い眉をひそめたセブルスだったが、不意に通路からこちらへ現れた顔に、目を丸くした。

「……スネイプ」

 が低い声で呟くように言った。セブルスが杖を片手に眉間に皺を寄せている姿をじっと見つめた後で、再び靴音を鳴らしながらこちらへ近づいてきた。

「何で固まってるのよ。私が図書館に居たらおかしい?」

 テーブルの端に鞄を置くと、そう言った。

「そのくたびれた羽ペン、さっさと直せば」

 相変わらず鼻につく物言いをする女だと思った。セブルスはを睨み上げると、呪文を唱えながら杖を振った。途端にペン先はまっすぐに伸びて元に戻ったが、羽根はくたびれたままだった。それを横目で見て鼻で笑った彼女に、セブルスは悔し紛れに言う。

「ここは僕のテーブルだ。離れろ、邪魔だ」
「図書館はあんただけの物じゃないのよ。私がどこに座ろうと勝手でしょう」

 返す言葉がなく黙り込んだセブルスに背を向け、彼女は本棚に目をやった。

「……何の用だ」
「どうしていちいち教えなくちゃいけないの?勘違いしてるようだから言うけど、ここはあんたの部屋じゃないわ」
「勉強しているんだ。邪魔になるようなことだけはするな」

 返事をするのも無駄だと思ったのか、彼女はセブルスの言葉に反応を示さない。本の背表紙に人差し指を当てながら、何かを探しているようだった。
 は今や底辺に落ちてしまった存在である。かつての"友人"の嫌がらせで廊下に倒され、手を貸す者も誰もおらず、みじめな姿をさらしていた。しかし、セブルスに対する高慢な態度は何一つ変わっていない。なめられている、と思った。
 視界の中で左右に揺れる亜麻色の髪を、唇を噛んで眺めていたセブルスは不意に、彼女が何をしているのか悟った。

「何か探しているのか」
「……黙ってお勉強してなさいよ」

 傍らの鞄を引き寄せ、羊皮紙や教科書の間から一冊の本を取り出しながら、セブルスはうっすらと笑みを浮かべて言う。

「シリウス・ブラックの恋人じゃなくなったお前には、もう誰も関心を寄せないのか」

 の動きが止まった。一瞬の沈黙が流れたが、セブルスは再び口を開く。

「哀れだな」

 その言葉に、彼女は鋭い目つきでセブルスの方へ顔を向けた。しかしセブルスの右手にある本を捕らえると、その怒りに満ちた表情もさっと色を失った。"ゆかいな童話集"という文字は様々な色に変わりながら点滅し、表紙に描かれた動物や人の絵は互いに手を取り合って微笑んでいる。はしばらく目を見開いたままだったが、その様子を見てセブルスが鼻で笑ったことで我に返り、蒼白な顔が次第に赤みを帯びてきた。

「――なんで、あんたが持ってるの」

 奥歯を噛みしめたまま、唸り声とも似た低い声で言ったかと思えば、彼女はこちらへ駆けてきてセブルスの右手から本を乱暴に取り上げると、セブルスから離れた。

「それは学校の本だ。落書きはやめろ」

 胸に押し当てるようにして本を抱きかかえるに、セブルスは冷たく言い放った。彼女はセブルスを睨んだが、その目はすぐに力を無くし、視線を下げた。

「……見たの?」

 弱弱しい声で、彼女は言った。セブルスはてっきり、この女のことだから酷い言葉で罵るのだろうと思っていたから、その予想外の反応に拍子抜けした。 

「シリウスにも見せたことなかったのに」

 呟くように言ったその言葉のうち、セブルスは「シリウス」の部分しか聞き取れなかった。先ほどまでの噛み付くような態度から一変し、身を小さくして本を抱えたまま俯くの姿に、セブルスは今すぐこの場から去りたいという衝動に駆られた。しかし、席を立とうとしても足が動かなかった。しばらく視線を下げて、手元に広げた教科書のページに付く染みの数を数えていたが、ふんっと笑う声で即座に顔を上げた。

「いいわよ。学校中に言いふらせば?そしたら私はもっと人気者になれるだろうから」

 は吐き捨てるようにそう言った後、何がおかしいのか笑い声をあげる。セブルスはその奇怪な行動に眉根を寄せながら神妙に言った。

「誰にも言わない」

 笑い声はやんだ。セブルスは彼女の表情を見ながら、繰り返す。

「そこに書いてあったことは誰にも――」
「嘘よ!」

 は突然表情を変え、

「誰も信じない!」

と大声で叫ぶと、わあっと声を上げて頭を抱え込んだ。その傍らに、持っていた本が虚しい音を立てて床に落ちる。セブルスは今何が起こっているのかが理解できず、視線を左右に忙しなく動かしていたが、遠くから聞こえて来る足音で弾かれるように席を立った。

「マダム・ピンスが来る。おい、立て」

 彼女のヒステリックな叫び声を聞きつけたマダム・ピンスがこちらへ急ぎ足でやって来ている。セブルスは机に広げた教科書や羽ペンを鞄に詰め込み、うずくまるに向かって声を掛けた。

「その本を持ってはやく逃げろ。落書きが見つかったら地獄を見ることになる」

 そう言った後で、は今まさに地獄を見ているのだ、と思った。彼女を崖っぷちまで追い詰めたのはシリウス・ブラックやローラという女、"友人"たちだが、ついにそのどん底へ突き落としたのは自分なのではないかと思うと、調子が狂った。
 セブルスは次第に近づいて来る足音を耳にしながら、彼女の腕を掴んで体を引き起こした。 ふと顔をあげた彼女の顔は青白く、しかしその目に涙は欠片も見られなかった。そしてセブルスは、この状況に不釣合いなほどに賑やかな童話の本を拾い上げ、の腕を引いて図書館を飛び出した。



(2009.9.16)