episode 6.秘密基地





「あんた、どこまで行くつもりなの」

 その一言で、セブルスは走る足を止めた。そうして振り返ってみると、が肩で息をしながらセブルスを怪訝そうに見上げていた。

「がむしゃらに走ってたんでしょう。なんでこんなに遠くまで来ちゃうのよ」

 彼女にそう言われて辺りを見ると、湖の先にホグワーツ城があった。
 セブルスはそこでようやく我に返ったようにして、掴んでいたの腕から、慌てて手を放した。
 ――僕としたことが、なんでここまで、こんな奴を連れて来てしまったのか。

「何度も声を掛けたのに、あんた、全然気付かないんだから」

 ようやく解放された腕を擦りながら、は口先を尖らせた。
 そしてセブルスは、そう言う彼女の手首に、自分の手の跡がくっきりと残っているのを見た。ただでさえアザだらけの身体に、もう一つ跡を付けてしまったことが、セブルスの調子を狂わせた。

「悪かった」
「……何よ、えらく素直じゃない。きもちわるい」

 は眉根をひそめた。

「本のことも」

 セブルスは片手に握っていた童話本を見下ろし、続ける。

「たまたま手に取った本が、これだったんだ。見ようと思って見たわけじゃない。お前が書いたことを言いふらすことも、しない」
「なんで?私が、かわいそうだから?」

 彼女は笑った。それは、どこか自嘲的な笑みだった。セブルスは言い返すこともできず、ただ黙り込んでいた。
 風が吹き、森が揺れる。はセブルスの傍らを通りすぎ、湖の方へと歩を進める。
 この湖のほとりは、セブルスのお気に入りの場所だった。シリウス・ブラックやジェームズ・ポッターから冷やかしを受けた後は、大抵ここへ来て、気持ちを落ち着かせるのだ。それに、向こう岸に見える壮大なホグワーツ城を、この場所から眺めるのが好きだった。外から見れば、やはりこの城は美しいのだ。中に居れば、嫌でも醜いものが見えてしまうが。

「同情されるのは嫌よ」

 は静かに、しかしはっきりと、セブルスを見据えながらそう言った。

「それに、あんたは悪くない。私が愚かだっただけ」

 言いながら、彼女は杖を振った。すると、セブルスの手にあった童話本が宙に浮き、の元へ漂っていく。そうして彼女の手の平に乗ると、本は独りでにページをめくり始めた。その様子を見て、セブルスは思わず彼女の元へ足を進めた。

「だって私、こんな……血迷ったこと」

 あの落書きが残るページで、本の動きはぴたりと止まった。は再び杖を振り上げる。杖先から、朱色の光が漏れ出ようとしたときだった。その杖は彼女の手から離れ、くるくると円を描きながら湖へと落下した。

「マダム・ピンスに殺されるぞ。本を燃やそうとするなんて」

 セブルスの掲げた杖が、彼女を制止したのだった。は唇を噛み、セブルスを睨んだ。しかし、セブルスは構わず近づいて来るので、は後ずさりしながら口早に言った。

「大丈夫よ。あの人、生徒達の行動ばかり気がいって、本の管理には少し抜けた所があるんだから。それに、どうせこんな童話、誰も読まないんだし。失くなったって、誰も気付かないわよ」

 そして、「ちょっと、杖はどこよ」と湖の中に足を入れ、片腕を突っ込んだ。水しぶきをあげながら探すも、そう簡単に見つかるはずはなく、とうとうは「杖を返して」とセブルスに訴えた。すると、セブルスが杖を構えたので、彼女は安堵の笑みを浮かべた。

「その前に、その本をこっちへ渡せ」

 その言葉で、緩んでいたの表情は途端に強ばった。

「なんでよ、なんであんたに?気がおかしいんじゃないの」
「渡せば杖を水中から出してやる」

 目尻が裂けそうなほどに見開いていた彼女の目は、杖を掲げたままのセブルスを捉えていたが、「ふざけないで」と言った後、手元の本へと視線を落とした。

「やめろ」

 水しぶきがあがった。セブルスが湖に入り、足で水をかき分けながら、今まさに本のページを破ろうと指先に力を込めているの元へ駆け寄った。

「離して」
「やめろ」

 本を奪い取ろうとするセブルスと、それから逃れようとするは、互いに身体をぶつけながら争った。もう少しで本を取られそうになった彼女が、自らの上半身すべてを使って思い切りセブルスを押した。するとセブルスは、後ろにのけぞりながらの片腕を掴んだので、二人は激しい水音を上げながら倒れたのだった。

「ちょっと!もう何なの!」

 セブルスの身体の上に倒れたは、すぐに離れて立ち上がった。長い髪の先から水をしたたらせ、額から伝う水が口に入るのにも構わず、彼女は声を荒げた。

「放っておいてよ!」
「逃げるな!」

 セブルスは立ち上がった。今まで聞いたことのないセブルスの大声、そしてその様子に、は怯む。セブルスも、思わず声を上げてしまった自分に驚いたのか目を丸くしていたが、少し間を置いた後に再び口を開いた。

「あの学校には、嫌な奴ばかりだ。愚かで、下品で、どうしようもない奴ばかりだ。でも、だからこそ、信じられるのは自分だけだ。唯一信頼できる自分からも逃げてしまえば、お前は消える。消えて無くなってしまう。そうなれば、あいつらに敗れたことになる。あいつらのつくる愚かな世界で、自分を持たずに生きることになるんだ」

 自分が同じ空間にいると知れば必ずと言っていいほど、手や口を出してくるシリウス・ブラックやジェームズ・ポッター。それを見て下卑た笑い声を上げる生徒達。思い出しただけで目を瞑りたくなる。それでもここまでこの学校での生活を続けられたのは、憎いブラック達への復讐心と、自分を受け入れてくれる唯一の存在があったからだ。
 幼馴染みのあの女がいなかったら、僕はきっと消えていた――

 水音がした。が、水面に漂っていた本を拾い上げたのだった。

「ほぼ無傷ね」

 確かに、童話本は水の中に落ちたにも関わらず、インクが滲むこともページがふやけることもなく、まるで何事もなかったかのように彼女の手に納まっている。

「その戯れ言は、お前自身なんだろう」

 シリウスの名前をなぞるに、どうしてこの女にこんな話をしているんだろうと、セブルスは自分に呆れた。きっと、この女は聞き入れない。

「あんたも、自分にそう言い聞かせながら、今までやってきたんだね」

 セブルスが諦めかけていたとき、彼女はようやく口を開いた。

「あんたのこと、ひどいあだ名で呼んで、ごめんなさい」

 そして、本を閉じて微笑んだ。

「ありがとう」

 ここまでやわらかな声で、やさしく笑える女だったのか。セブルスは、しばらくから目を離せずにいた。もしかすると自分は、この女について何か勘違いをしていたのかもしれない。そう思わされた。

「でも、その本どうしよう。誰かに見られる可能性を考えたら、図書館に戻したくないし、持っていたくもないし」

 セブルスが我に返ったときには、彼女の顔から笑みは消えていたので、セブルスはまるで幻を見ていたかのような錯覚を味わった。
 は本を見下ろし、ため息をつく。

「この場所のことを誰にも話さないなら、僕が隠してやってもいい」
「……なに、ここってあんたの秘密基地なわけ?」

 セブルスは何も返さず、彼女の手から本を奪った。そうして本に杖を当て、呪文を呟く。すると本は一瞬、光に包まれた。

「何をしたの?」
「保護をした。誰かが破いたり、燃やしたり、濡らしたりしないようにな。もちろん落書きも。マダム・ピンスもこの呪文を覚えるべきだ」

 片方の口角を上げながら言ったセブルスの腕を、は拳骨で打った。

「痛い」
「あんたにも痛覚はあったのね。で、次はどうしてくれるわけ?」

 やっぱりこの女は傲慢だ。
 セブルスは舌打ちをひとつ打ちながら、湖に向かって杖をもう一度振った。ぽこぽこ、と水音が鳴る。渦を巻きながら、水面にぽっかりと小さな穴が開いていくので、は目を見開いた。その穴の周りだけ水が押し分けられて、湖底の貝殻や魚の骨が丸見えになった。セブルスはさらに杖を振る。露になった湖底の土が掘り返され、そこにもまた穴ができた。それを確認すると、セブルスはその穴に本を置く。人と動物が陽気に踊る表紙は、覆い被さる土の中に消えていった。水面に開いた穴も塞がれていき、そうしていつも通りの湖に戻るのだった。

「この場所のこと、誰にも教えるなよ」
「私の秘密も隠したわけだから、誰にもに話せるわけないでしょ。それと、私の杖、返してくれない?」

 すっかりそのことを忘れていたセブルスは、慌てて杖を掲げる。呪文を唱えれば、湖の底に眠っていたの杖が、水面を下から突き刺すように飛び出してきて、彼女の手に戻った。「どうも」とは一言。
 空は日が落ちかけていた。背景が赤く染まるホグワーツ城を見ながら、セブルスはそろそろ帰ろうと思った。森に入ろうと湖に背を向けたセブルスだったが、足音が続いて来ないことを訝しく思い、立ち止まる。湖の岸辺に突っ立ったまま、はホグワーツ城を見ていた。

「でも私、最初から自分なんて持ってない。 だからこうなったのよ。でも、なんでこんなことになっちゃったんだろう」

 矛盾している。セブルスは思った。しかし、よく見ると彼女の足は、微かに震えていた。
 ここに居ると、束の間の自由に心が安らぐ反面、あの場所へ戻ることが怖くなるのだ。

「逃げるな」

 セブルスの声に、彼女は振り返った。その唇は、かたく結ばれていた。

「うん」

 何かが溢れ出してしまわないように、慎重に唇を開いたは、杖を懐に仕舞ってから、セブルスの元へ駆け寄った。

 わかる、と思う瞬間が増えてしまったことを悔い、しかしどこかで安堵しながら、セブルスもまた矛盾する気持ちを抱えて、二人は城へと帰る道を進んでいくのだった。




(2014.10.03)