episode 7.何者




 朝一番の授業で提出する課題を、うっかり忘れてしまっていた。
 とにかく朝食を済ませてから課題を仕上げようと、セブルスは大広間でパンやスープを口に押し込んでいた。まだ人もほとんど居ない大広間で、皆がゆったりと食事をとる中、セブルスのその慌ただしい様子は特に目立っていた。
 いつもは課題など、出たその日の内に済ませる。だが昨日は、あの湖のほとりから学校へ戻ってから一気に疲れがやってきて、すぐに眠ってしまったのだ。
 あいつは、あの後どうしたんだろうか。
 地下牢に入る前に、セブルスはと別れた。用事があると言っていたが、セブルスは、自分と寮に戻る姿を他人に見られるのが嫌だったのではないかと思っている。しかし、彼女がそう思うのも仕方がない。セブルスと一緒に居るところを、彼女の元取り巻きにでも見られたならば、必ず冷やかされる。ありもしない噂を広められる。連中に自らうまいネタを与えてやる必要などない。かばってくれる人などもういないのだから、自分で自分を守るしかないのだ。
 は賢明な判断をしたな。セブルスはそんなことを考えながら、寮への地下階段を降りて行ったのだった。


 セブルスは大広間の時計を確認した。牛乳を飲み干し、荷物を抱えて立ち上がる。授業開始まであと二時間はある。今から一限目の教室へ向かい、そこで課題を終わらせよう。
 一分一秒が惜しいセブルスは、大広間の扉を目指して駆ける。今もし目の前に人が現れたら、真正面から思いきりぶつかってしまうだろう。けれど、こんな朝早くに朝食をとりに来る生徒など……

「うわ!」

 高をくくっていたセブルスの前に、扉の陰から人が現れた。急に立ち止まることなど出来ないスピードを出していたため、見事に身体は後ろに飛び、尻餅をついた。

「いきなり出て来るな!」

 驚きと痛みのあまり、大声を上げたセブルスだったが、

「ちょっと、嘘でしょ」

 その声に冷静さを取り戻した。目の前で同じく尻餅をついていたのは、だったのだ。

「どこからどう見ても、こんな場所で、そんな全速力で走ってた方が悪いでしょう」

 信じられないという顔をしてみせるは、辺りに散らばった自分の持ち物を見やり、ため息を吐いた。

「何か言うことはないの」
「……悪かった」

 セブルスは渋々そう謝ると、立ち上がり、自分の持ち物を拾い始めた。もゆっくりと立ち上がり、散乱した教科書や羽ペンを気だるそうに集めている。

「ああ、これもまた痣になりそう」

 尻を擦りながら、ひとりごちるように言った。セブルスは、のその言葉に頭を殴られたような感覚を覚えた。

「……ない」
「え、なんて」
「ならない」
「何が」
「痣にはならないって言ったんだ!」

 一思いに言い切ったセブルスは、の反応を見る間もなく、鞄を抱えてその場から逃げた。
 いつも元取り巻きに転ばされてばかりで、身体中いたるところに痣を作っている。その身体に、自分のせいでまた一つ痣を刻んでしまうなんて、想像するだけでも調子が狂ったのだ。
 あの言い方は何だ。あいつ、悲劇のヒロインにでもなったつもりか。
 セブルスは心の中で何度も舌を打ちながら、一限目の魔法史の教室へと走るのだった。


 教室に着いた頃には、息も絶え絶えになっていた。授業開始まであと二時間を切っている。急いで課題に取りかからねばならない。
 セブルスはネクタイを緩めながら、窓側の一番前の席に座り、鞄を広げる。教室の窓側の列の一番前は、セブルスがいつも好んで選ぶ席だった。前に人がいると、気が散るのだ。ましてやそれがシリウス・ブラックだったら、授業どころではなくなってしまう。集中するために、自分の前には教授しか見えない一番前の席に座る。それがセブルスのこだわりであった。
 まずは羊皮紙と羽ペンを取り、次に教科書を鞄から出す。さあ書こうと羽ペンを握ってから、インク壷を机上に出していないことに気が付き、よっぽど気が焦っているのだなと自分を笑った。鞄に手を突っ込み、インク壷を探る。そのとき、ふと手に触れたものを取り出した。それは、丁寧に巻かれた羊皮紙だった。セブルスは、こんなに羊皮紙を丁寧に扱ったことはない。不思議に思い、それを広げてみる。
 羊皮紙には、細かい字がびっしりと詰まっている。内容は、セブルスが今まさに焦っている魔法史の課題。字のせいか、等間隔に空けられた行間のせいなのか、一瞬見ただけでも、少しも隙がなく完璧な回答であることが伺える。羊皮紙の右下に記された名前は――

「……嘘だろ」

 先ほどの衝突で、の羊皮紙を誤って自分の鞄に仕舞ってしまったらしい。
 よくあの過酷な状況で、こんな完璧な課題を仕上げたものだ。それに比べて、自分はなんという体たらくなのだ。
 セブルスはその課題を脇に置き、後でが来たときに渡そうと、自分の課題に取りかかった。


 ようやく「熱血漢エフリックの反乱」の考察についての課題を終わらせたセブルスが顔を上げると、周りの席はスリザリン生で溢れていた。皆この課題を仕上げて来たのかと思うと、セブルスは近ごろ勉学に専念できていない自分に嫌気がさした。
 セブルスの隣の席は、いつものように空いている。一番前の列は、どんなに教室に人が溢れていても、なかなか埋まらないのだ。
 の課題を手に、何度も教室の扉を振り返った。後方の席で窮屈そうにしている生徒の中には、の姿は見つからなかった。教室中を見渡しても、彼女の姿はどこにもない。

「あら、がいないわ」
「なによ。席取っておけって言ったのに」
「信じられない。あの女、後で見てなさいよ」

 口々にそう言いながら教室に入って来たのは、の元取り巻きだった。最前列しか席が空いていないことに気付くと、教室の中央辺りに座っていた気の弱そうな生徒を蹴散らして、そこにどっかりと腰を下ろした。その傲慢な態度に、セブルスは眉根を寄せた。
 席を奪われた生徒たちが最前列に移動していると、魔法史の教授が教室に入って来て、授業は始まった。ついにが現れることはなかった。



 その日の夕方だった。魔法史の授業で提示された魔女狩りについて調べるため、セブルスは図書館を訪れた。本を乱雑に扱っている生徒がいないか目を光らせているマダム・ピンスの前を通り過ぎるときは、思わず呼吸をするのを忘れた。彼女の大切なこどもを湖の底に埋めていると知られた日にはどうなるか。
 いくつかの書棚を過ぎたとき、視界の隅に見覚えのある姿が映り込んだ。



 何冊もの本を広げ、夢中で羽ペンを動かしているのは、確かにだった。セブルスの声に気が付いて顔を上げた彼女は、はっとしたような表情を見せた。

「朝、あんたとぶつかったせいで具合が悪くなって、それで魔法史の授業には出られなかったの」

 何も尋ねていないのにも関わらず、は唐突に言い訳を始めた。

「今日提出の課題、自信があったのに。エフリックの反乱については前から疑問に思うことがあったの。ぜひ教授に見ていただいて、ご意見を頂戴したかったわ。ああ、本当に、どこかの誰かがぶつかって来さえしなければ……それ何?」

 セブルスが鞄から羊皮紙を取り出したのに目を留めると、は眉根をひそめた。

「そんなに自信作だったなら、代わりに提出しておけば良かったか」

 言いながらセブルスが近づいて行くと、は急いで手元に広げていた本を閉じ、紙を伏せた。その様子を不審に思いながらも、セブルスは彼女に羊皮紙を渡した。

「これ、私の課題……」
「今朝ぶつかったときに、誤って僕の鞄に入れてしまったようだ」

 セブルスは机上の本に目をやった。それは、エフリックに関する文献だった。

「あの子達の仕業じゃなかったんだ」

 そう呟いたの言葉で、セブルスは悟った。
 セブルスの推測に間違いがなければ、伏せられたその紙は、今日提出するはずだった課題だ。仕上げたはずの課題を、元取り巻きに悪戯されて紛失したと思ったは、授業には出ず、それでも提出だけはしようと、記憶と文献を頼りに書き直していたのだろう。

「その目。全部分かったようなその目、やめて」
「見栄を張るなよ」

 は黙り込んだ。彼女は前々からエフリックの反乱について関心があったと話していたが、そうだとしたら、こんなに文献を広げて調べるまでもないはず。時間をかけて課題を書き直すまでもなく、自分の知識だけで、すぐにでも仕上げられたはずだ。おそらく昨日も、湖から帰る途中で用事があると言った後、図書館に来て課題をしていたのだろう。

「もう、毎回必死よ。教授たちにまで愛想尽かされたくないから」

 彼女は諦めたような笑いをこぼした。そうして、伏せていた羊皮紙を破る。

「嘲笑ってるんでしょう。課題が提出できないから授業に出ないなんてって。でも、教授に失望されたくないの。皆に、が課題をやって来なかったって、思われたくないのよ」

 聞いているだけでも息が詰まりそうだと、セブルスは思った。「誰にどう思われてるかなんて気にするのは時間の無駄だ」と言ってしまいたかったが、今の彼女にそんな言葉を簡単に吐けるほど、セブルスも無情にはなれなかった。それに、彼女ほどではないが、周囲から自分がどう見えるのかを気にしてしまう気持ちは分かる。

「万人受けするために、自分を苦しめる必要はもうないんじゃないか。どうせ、お前はもうかなりの奴らに嫌われてるんだ。それとも、まだ“ホグワーツのマドンナ”に固執するつもりなのか」

 誰からも良く見られようと、表では自分を偽り、裏ではその反動を取り巻きたちにぶつけ、挙げ句、恋人にも取り巻きにも見放され。それでもなお、最後の頼みでもある教授たちに縋り付くため、身を削りながら体面を保とうとしている。
 何のために。セブルスには、のことが理解できなかった。彼女の今の姿は痛々しく、見ているだけで、こちらの息が詰まりそうだ。

「そうしたら、私は何者になるの」

 俯く彼女は、絞り出すような声で言う。

「“ホグワーツのマドンナである”じゃなくなったら、私は誰になるの。……何も分かってないくせに。あんただって皆から嫌われてるくせに、偉そうにアドバイスなんかしないでよ」

 最後は語気が荒くなり、はセブルスを睨み上げた。

「なら教えろ。自分が何者になるのかなんて、お前をそう思うようにさせたのは何だ」

 セブルスも彼女の勢いに負けず、声を荒げた。
 途端に通路の奥から尖った足音が響きはじめ、その音は次第に近づいて来た。

「そこ!うるさいですよ!喋りたいなら出て行きなさい!」

 マダム・ピンスが、まさに鬼のような形相で現れ、足音よりもさらに尖った声でそう言い放った。
 いつもならば、すぐにでも荷物をまとめて司書の言う通りにするのだが、セブルスもも、互いに見合ったまま微動だにしなかった。司書は金切り声で、すぐに出て行くように繰り返し叫ぶ。
 マダム・ピンスの声で掻き消されぬように、セブルスはのそばに寄った。

「お前は何を恐れているんだ。ホグワーツのマドンナじゃなくなっても、お前はだろう。昔も今も、それは変わるはずがない」
「私は変わりたかったのよ」

 自分を睨むの目に涙が滲んだように思えた。しかしセブルスが確信を持つ前に、彼女は立ち上がって、机上の荷物をまとめ始めた。「出て行け」「以後は入館禁止」と叫び続けるマダム・ピンスは、彼女が身支度を始めたのに気付くと、ぴたりと声を止めた。

「すみませんでした、先生。すぐに出て行きますので」

 が申し訳なさそうに謝ると、マダム・ピンスは満足そうに鼻を鳴らして、もと来た道を帰って行った。
 インク壷、羽ペン、教科書。そして最後に、セブルスから返された羊皮紙を鞄に入れると、彼女は小さく息を吐いた。

「ずっと憧れてたものがある。絆がほしかった。ただ、それだけ」

 囁くようだった。
 鞄を肩から提げ、セブルスの脇を通り抜けて、は通路を真っすぐに歩いて行く。もう俯くことはなかった。
 そうして彼女が去った後、図書館にはようやく静寂が戻った。



(2015.01.25)