第二話

めざめ


 白い朝日に目を開ければ、鳥のはばたきが聞こえた。追って、ひゅん、と風を割く音が聞こえてくる。なるべく音を立てないように引き戸を開ければ、風を割く音は大きくなる。冨岡が竹刀を振る音だ。窓辺の桟には、白い花が置いてあった。今日のものはリンゴの花に似ているが、名前は知らない。
 手折られたそれを、窓辺に置いた投げ入れの花器へ生けた。萎びてきた葉を取り整えてから、窓を閉める。冨岡がわたしをここへ連れてきた理由を、表向きは炊事や洗濯だと言ったので、わたしはそれを守っている。あと一時間もすれば、冨岡は庭から上がってくるだろう。

 赤い炉の中で鋼が溶けていく。十分な温度になった鋼を槌で叩けば、ちかり、ちかりと火花が飛んだ。鍛冶職人に目を悪くするものが多いのは、鋼を溶かすため高温の炎を見続けるからだ。わたしの片目はすでに潰れているので、残った目は大事にせねばならないと思うが、わたしは鍛冶の仕事が好きだ。刀鍛冶の里の人間がみな火男の面で顔を隠す風習であることも、ありがたかった。
 鬼がいなくなってからは刀を打つ必要もなくなり、その後は里でかんざしや帯留めなどを打ち、それに彫金したものを売って暮らしていた。冨岡が急に里へやってきてわたしを連れて帰ってしまった日からも、庭に鍛冶小屋を作ったというのでそこで仕事をしている。売れたものの金は冨岡に生活費として渡すが、冨岡は不服そうな顔をする。お館様はたしかにわたしみたいな末端にも十分すぎる褒賞をくださったし、それは冨岡も同じなのだろう。
 冨岡のほうは時折宇髄様と連れだって出ていき、なにやら彼の仕事を手伝っているようだった。刀を持って出ていくが、今のところ折って帰ってくることはなく、わたしの打った数本の刀は、鍛冶小屋の納戸にしまい込んだままになっている。
 
 作業に区切りがついたので小屋から出て屋敷に戻れば、縁側から飛び出た袴の足が見えた。汗で張り付いたほっかむりが気持ち悪い。取りつつ近づけば、今日はでかけていない冨岡が縁側でまどろんでいた。そばには用意してあった昼食の盆があるので、ここで食べていたのだろう。
 鋼を鍛え始めると火を弱めるわけにもいかず、一区切りつくまで作業を止めることができない。朝食と夕食はその都度用意するが、昼食は都度の用意はできないと言えば、冨岡は何でもないことのように構わないとうなづいた。
 自分の分の昼食を蚊帳から取り出し、同じように縁側へ持ち出す。すよすよ寝ている冨岡は起きることなく、近所の子どもが塀の向こうを駆けていく笑い声と、豆腐売りのらっぱの音が聞こえる。揚げを買いに行って、夜はそれを素焼きにしようかそれとも煮ようかと思って、眠る冨岡を見た。
 昼食を食べ終わってもひどくこの場から離れがたく、結局豆腐も揚げも諦めたわたしは、小屋から溶かして整形した真鍮の板を取ってくることにした。こつこつと小槌がたがねを叩く音がしても冨岡は起きることがなく、かすかな寝息が聞こえ胸が上下していることが慰めだった。

 『痣者』は二十五までしか生きられない。そんな伝承があると教えてくれたのは宇髄様で、冨岡は一言もそんなことを教えてくれなかった。
 さらうようにわたしを里から連れ出し、冨岡は自分の屋敷にわたしを置いた。どうしてそんなことをするのかわかっていたから、わたしは一度だけ、冨岡に気にしなくていいと言ったのだが、彼は聞き入れてはくれなかった。
 あの半年前の夜のことは、魔が差したとしかいいようがなかった。近々鬼との大きな戦いになるとお触れがあって、隊士の方々は鍛錬に精を出しており後方支援の刀鍛冶の里のものは、担当している隊士の刀の整備や打ち直しに明け暮れた。
 それはわたしも同じくで、担当の隊士―水柱の冨岡義勇の刀を鍛え直し、彼の元に届けに上がったのがあの晩だった。驚いたのは池の底のような、動かない水のようだった冨岡の目が、水が、流れていたこと。
 夜も遅いし茶でも飲んでいけ、飯は食べたのかと聞かれて初めて、ずっと研ぎ小屋にこもり切りで腹が減っていたことを思い出し、体は盛大に空腹を訴えた。冨岡が虚をつかれて、それから少しだけ眦をさげた。あのときの冨岡の顔を、わたしは一生忘れらないと思った。
 誘われて風呂を使わせてもらい、ありものだがと出された食事は親子丼だった。これは冨岡が用意したのかと思ってまじまじ見れば、俺だってそれくらいはできると少しだけ口を尖らせた様が意外で、冨岡の時間は動いたのだと、やっと合点がいった。
 留まった水底のような、流れることのない水のような。
 初めて会ったときの冨岡の印象はそれで、わたしの師匠が鱗滝さんの刀を打っていたのが縁だった。初めて刀を持参したとき、彼は戊でわたしは駆け出しの刀匠だった。火男の面ごしに見る冨岡は年齢に似つかわしくない落ち着きがあって、まるで水底のような少年だと思った。きっと流れる時間を止めてしまったと思ったのは、わたし自身が同じような気持ちでいたからだ。
 成長する体も、膨らむ乳房も、片目がつぶれたとは言え褒めそやされる面の皮も、嫌で仕方がなく受け入れがたかった。男の手のひらの嫌な温度と、女の白粉と血のにおい。わたしの抱く恐怖と諦念と自身への嫌悪と、同じような思いを、彼から感じ取った。
 鬼殺隊士が刀を折ったり、刃こぼれさすことは日常茶飯事で冨岡も例外ではなかった。彼は自身を顧みず戦っているようで、いつも研ぎなおす刀はぼろぼろだった。今回はいつもより入念に仕上げたつもりだが、どうだろうか。
 わたしが面を外して丼をかき込んでいる横で、刀を抜いて見分する冨岡は満足気だ。刀身がみるみる青く輝いていく。何人かの隊士に刀を使ってもらっているが、冨岡の刀身の色が一等冴えているように見えるのは、欲目だろう。
 冨岡は刀を鞘へ納めると、急にふかぶかと頭を下げてきた。何事かと思って慌てるわたしに、冨岡はあろうことか、笑ってみせた。

「今までありがとう。助かった。この戦いで何もかも終わることができるよう、尽くしてくる」
「やめてください、あなたらしくもない」

 そう勝手に言いつのって再度下げた頭をあげさせようと、肩に触れる。「俺は……」 小さく話し始めた冨岡の声音は、年端もない少年のようだった。

「俺は大切なことをずっと忘れて、思い違いをしていた。それに弟弟子が気づかせてくれた。
 だから、それでもこんな俺でも、これまでの俺を支えてくれた人たちに、報いたいと思っている。
 たとえ刺し違えても、鬼舞辻を殺してくる。約束する」
「やめてください、縁起でもない、やめて」

 反射的に言ったが、紛れもない事実であるともわかっていた。刀匠は刀を鍛える。隠は剣士を支援する。剣士は鬼を殺す。
 そういう役割で、存在の理由だ。わたしだって里が鬼に襲撃をされたときこそ偶々生き残ることができたが、たとえ殺されていても、それは仕方のないことだと思っている。わたしが死んで鬼が死ぬなら死んでいい。我々は、そういう生き物である。 
 ただ、理屈と情は別物だ。
 
「冨岡、やめてよ……」

 崩れた口調に、にじむ視界に、彼の肩に触れていた手のひらに、冨岡の右の手のひらが重なる。ぶあつく、剣蛸がたくさんあり、お世辞にも触り心地のいい手のひらではない。戦う者の手のひらだ。わたしの手のひらだってそうだ。火傷が多く、切り傷の跡だらけだ。
 なのに、触り心地もよくないその肌の温度が沁みるようで、水の眼がわたしを見る。唇へ吸い付いたのはどちらからで、抱き着いたのと組み敷いたのとどちらが先かなんて、野暮な話であった。
 この数年間、わたしたちは確かに戦友で命を掛けあう相手でもあった。わたしの刀が冨岡を生かし、冨岡の刀がわたしを守った。戦いは収束し、終結し、今までのわたしたちは終わろうとしている。
 探るような冨岡の手のひらは熱くて、吸い付いた唇の快感が忘れられず、離すことができない。溢れた冨岡の吐息に、心も体もすべてが濡れていくような心地だった。忌々しくて仕方のなかった乳房も、今冨岡の前で彼の興奮を煽れるものであるなら、それでいい。夜通し抱き合って、体を暴きあった。ずいぶん恥ずかしいことを言ったし、言われた。あられもない声をあげて、あられもないことをされた。わたしのずぶずぶの痴態にひどく興奮した顔をする冨岡に、男のように意地悪なことをいう冨岡に、彼もしっかり男だったのだと的外れな感想を抱いたりもした。
 
 彼が死ぬつもりなどなくても、死を恐れるつもりもなく拒むつもりはない。そんなこともわかっていた。
 戻ってきてほしいと思っていたけれど、戻って来てくれる確信なんて持てないから、どう別れを告げればいいのかわからなかった。目覚めたときに冨岡はわたしを枕のように抱いていて、身じろぎに気づいて瞼を開けた。もう行くと告げたわたしを、冨岡は引き止めなかった。着替えてから玄関まで見送りに来てくれたけれど、先の約束はなく、「また」の言葉もなく。わたしは一生この夜と、この男の思い出を抱えて生きていく気がしていた。

 そして水柱生還の報を受けたとき、わたしは次の刀を打っていた。その後の続報で詳細を聞くうちに、わたしの刀は上弦の参との戦闘時に折れ、鬼舞辻無惨には届かなかったことを知った。そして、冨岡義勇が利き腕を喪ったことを、知った。



 鮭はなかったが、冨岡は大根を炊いたものも好きだ。日も暮れかけるころにようやく目を覚ました冨岡は、起こしてほしかったなどと子どものように言った。わたしは彫金仕事を片付け、夕飯づくりに取り掛かる。揚げの素焼きが食べたいから豆腐売りを捕まえてきてくれというと、冨岡はわかったと言って財布と桶を持って出ていった。一緒に豆腐も買ってくるつもりだろう。大根の皮をむきながらそれを見送った。皮はきれいに洗って、金平にするつもりだ。そういうと嬉しそうに跳ねた冨岡の背中は、もう遠い。
 わたしはいつも確かめずにはいられない。冨岡がまだ生きているかどうか。冨岡の水が留まって、滞っていないかどうか。彼の目が、時間が、流れているのかどうか。
 わたしの時間は止まっている。わたしの刀は冨岡の右腕を生かすことができず、折れた。最後の戦いに至ることもなく、道半ばで折れたのだ。隻腕の冨岡は刀を振ることはできるが、食事を作ることができない。大根の皮を包丁で剥くことができない。まな板の上で、鶏肉を抑えることができない。彼がもう、親子丼を作ることはないのだ。わたしの打った刀は折れた。冨岡は右腕を喪って帰ってきた。

 折れる刀を打ったわたしが悪いのだ。だから、わたしの貞操も体もくれてやるから、冨岡に娶ってなど、ほしくない。