「兄さん、どうしてあんな男を雇ったのよ」

 その晩、主人の九右衛門が寄り合いから戻ってくつろいでいると、が駆け込んで来てそう息巻いた。

。そんなにぷりぷり怒ってどうしたんだ」

 脇息に肘を置いて笑う兄を睨み、は続ける。

「兄さんは知らないかもしれないけど、あの男が来てから女たちが浮き足たって仕事に手を抜いてばかりよ」
「あの男?」
「新しい手代の!」
「ああ、総悟か」

 眉間に皺を寄せたまま頷くに、九右衛門は「煙草盆を取ってくれ」と頼むが、「後にして」とぴしゃりと返された。

「まあそう言ってやるな。たしかにあれはいい男だからな。女たちには俺から言っておくから」

 なだめるように言ってから、九右衛門は仕方なく腰を上げて煙草盆を取る。は煙管に煙草を詰める九右衛門の手元を見据えている。

「だが総悟は出来る奴だよ。仕事の覚えもいいし、商才もある。それにうちが放り出したら、あいつは行くところがない」
「どうして?」

 むくれ顔だったはとたんに表情を変え、首をかしげた。

「実家があるじゃない。確か家は造り酒屋をやっているんでしょう?たいそう裕福だって」

 つらつらと言葉を並べるに、煙管をくわえた九右衛門がにやりと笑んだので、は慌てて「お亀に聞いたのよ」と言った。
 ほうっと煙を吐き出し、九右衛門が言う。

「ああ。だがな、勘当されている」
「……え?」
「だから総悟には帰るところがないんだよ」
「勘当って、どうして?」

 目を見張ったが身を乗り出したとき、障子の向こうから声がした。

「旦那さま。松五郎さんがいらっしゃいました」
「松五郎が?」

 九右衛門は煙草盆に煙管を打って煙草かすを出しながら、「何の用だろう。おまえ何かあったか?」と訊く。は唇を噛んだまま首を横に振った。

「いま行くよ」

 仲居の女に向けて言い、九右衛門は立ち上がった。

「おまえは出なくていいのか?」
「いい。もうお化粧落としたから」

 そうかと微笑んで、九右衛門は部屋を出て行った。
 障子の閉まる音を背後に聞きながら、はひとり呟いた。

「――間の悪い」



 その後の仲居の話によると、松五郎は昼に取り付けた金具に不備があったかもしれないということで確かめに来たらしかった。夜分に失礼な男だと思うをよそに、義姉などは「職人らしい、実直な人ね」と言って感心しきっていた。この義姉はどうも気に喰わない。嫁にきたときからはずっとそう思っていた。それに、また実直。いい加減吐き気がしてくる。

 松五郎のおかげで手代の勘当の話について兄と話す機会を失った。どうにかして手代の過去を暴きたく、翌日には仲居のお亀を掴まえておもむろに切り出した。

「お亀。あの手代の話なんだけど」
「あの手代?」
「総悟とかいう男よ。何よとぼけちゃって」

 お亀はより年長で、但馬屋に勤めて長い。幼いころから遊び相手をしてもらっていたせいか、見世の女には厳しいも仲居のお亀にだけは懐いていた。

「他に知ってることはないの」
「どうしたんです突然。あ、もしかしてさん」
「妙な勘ぐりはやめて」

 それでもお亀は含み笑いのまま、意味ありげな目でを見る。顎をぐっと引いているので、小太りのお亀は二重顎になる。その様子がおかしくてはぷっと吹いた。

「知りませんよ。家業が造り酒ってことだけで、あとは何も。あまりご自分のことを話さないみたいで」
「ふうん」

 が無理に興味がないよう見せかけているとでも思ったのか、お亀はまだ顎を引いた上目遣いでを見ている。

「いい男ですもんね。顔はいいし、仕事もできるし、家は金持ち。三拍子揃ってるじゃないですか」
「さあて、中身はどうだろうね」
「おや。あなたが言いますか」

 お亀がそう言って笑い声をあげたので、もつられて笑った。

「まあいいわ。仕事の邪魔してわるかったね」
「いいえ。じゃあ」

 そう言って二人は別れた。互いにまだ笑いがおさまっておらずに、口元をふるふるとさせながら。



 しかし一刻も経たないうちに、お亀がの部屋へやって来た。手に帯を持って。

「お亀?どうしたの」
「この帯、総悟さんから修繕してくれって頼まれたんです。ほどいてみると、芯に遊女たちからの恋文が」
「え?」

 お亀は気持ちが昂っているのか、鼻息が荒い。帯を部屋の隅に放り投げ、お亀は文の束を差し出した。

「これ、全部……」
「全部違う女からのものですよ。ほら、ほら」

 お亀は文を一枚一枚裏返しにして、差出人の名を見せた。なるほどすべて異なる遊女の名で、十五枚はあった。
 文の内容を見ても、どれもが総悟に深く惚れ込んでいる様子で、命を投げ出してもいいとまで言う具合。それも商売上の口先だけの言葉ではない、真心からのものと思えた。
 はただ目を見張るばかりで何も言えない。

「どれほどの女を虜にしていたんだろうか」

 お亀は耳を赤くしながら文を片付ける。

「あの人、きっと巧みな技でも身に付けているんでしょうね」
「やだ」

 お亀がうっとりしたように言うので、はようやく声を出すことができた。
 にとって、他人のもてっぷりに驚かされるのは初めてだった。お亀がに見せると分かって帯の修繕を頼んだとしたら……。あの手代ならやりかねない。

「見せ付けられた……」
「何をです?」

 手際よく帯に針を通しはじめたお亀を無視し、は唇を噛んだ。お亀は無視されたことも、が険しい表情をして考えを巡らせていることも気に留めず、繕い物をつづけた。
 私だって負けないぐらいもてるんだからと、は意地になったのだった。




 翌日から、はそれまで以上に男と遊んだ。手代に見せ付けるために、男を見世の外で待たせておいたこともあった。しかし手代は忙しそうに店内を動き回っていて、と男に目を留める気配も無かった。

 七日に一度の約束で、松五郎にも会った。しかし満足するのは松五郎だけで、の頭の中はつねに手代のことでいっぱいであった。どんなことをすれば手代に一泡吹かせられるのか、それしか考えていなかった。

 ある日。は男と芝居を見た帰りに、但馬屋の前に手代の姿を見つけた。客を見世先まで送って中へ戻るところだろう。手代がこちらへ気づいて目を留めたときを狙い、は男にくちづけをした。道行く人々は驚いたように二人を見たが、が目をやると手代の姿はもうなかった。は苦々しい顔をして、ぼうっとする男の胸を押し返し、「じゃあね」と冷たく言うとさっさと歩き去っていった。

 暖簾をくぐる前に、は店内の様子をうかがった。誰もいない。丁稚一人でもいておかしくないのだが、どこかに使いに出ているのだろうか。それに、手代はどこへ。ふしぎに思いながら中へ足を踏み入れる。

「いけねぇな」

 ひっ、と声を漏らすと同時に、は肩をびくりと上げた。見ると、入り口の脇に手代が腕を組んで立っている。道理で外からでは姿が見えないはずだ。

「往来であんなはしたないこと。貞操ってもんがあんたにはないんですかね」

 は目を丸くしたまま手代から離れた。この男、見ていないかと思えば、しっかりと見ていたのか。さっきのも、見世の外で男を待たせていたのも、すべて。
 手代はの首筋にちらと目をやった。その視線に気づいては首筋を手で覆い隠す。

「女は体を大事にしねぇと。子を生むんだからな」

 手代はそう言って、の前を通り過ぎていく。下駄を脱いで、帳場にあがるまでをお夏は目で追った。
 悔しい、悔しい。は歯を食いしばった。どうしてもすかしたあの男の取り乱す様子が見たい。

「……勘当された人に、えらそうに言われたくないのよ」

 は呟くように言ったが、二人のほかに誰もいない見世の中では十分に聞こえた。手代は墨をする手を止める。それを見てはにやりと笑んだ。

「遊び呆けすぎて父親に見切りをつけられたんでしょう」

 言いながら、も下駄を脱いで畳にあがる。帳場格子に肘を付いて、帳面に目を落としたままの手代を正面から見据えて得意そうに言う。

「あの帯の芯が遊女たちからの恋文で出来てたの、知っているんだから。あんたのその好色っぷり、恐れ入るわよ」

 少しの間をあけて、手代は鼻で笑った。ふたたび硯に墨をする。

「好色女に言われてもかなわねぇですよ」
「……」

 つまらない。は舌打ちをして、手代の後ろにある帳場箪笥にもたれかかった。
 手代が墨を片付け、筆を硯に滑らせるのを背後から見ていた。皺ひとつ寄っていない手代の着物に比べて、自分のは皺がいくつもある。先ほどの男とのつまらない情事の後だからだ。不意にお亀の言葉が思い返された。「きっと巧みな技でも身に付けているんでしょうね」。

すると、目の前の男がどのように女を抱くのか知りたいという思いが起こり、は無意識のうちに手代の背に手を伸ばしていた。しかし触れる寸前のところで我に返り、代わりに意地の悪い言葉が口を突いて出た。

「でも、遊女ねぇ。あれほど本気で惚れられれば、心中を強請る女もいたでしょうね」

 かたん、と手代が筆を落とした。はまさかと思い、箪笥から背を起こした。

「もしかして、あんたもそんなこと――」

 やっとこの男の弱みを握ったと頬が緩んだだが、身を乗り出したところを力づよく押さえつけられ、肩と背の痛みに顔を歪めた。

「本当、うるせぇ女だな」

 手代がを帳場箪笥に押し付けていた。押さえられる左肩と、背が箪笥の引手に食い込んで痛む。しかしは手代の剣幕に恐れをなして声をあげることもできなかった。

「驚いたかい。あんたにこんなことする男、他にいなかっただろうな。どいつもこいつも鼻の下伸ばして、あんたの言いなりだ。そうしてあんたはいい気になって今まで生きてきたんだろ」

 は手代の向こうの、机上を転がっていく筆を目に映していた。何も返さないに手代は「そんなもんかい」と言って、手の力を弱めた。
 筆が畳へ落ちていく。落ちる、落ちる、落ちる、落ちた。
 その音に気を取られた手代の手を振り払って、は力いっぱいその横っ面を引っ叩いた。

「その言葉、全部そっくりそのままあんたに返すよ!」

 はまるで金縛りから解かれたように、そう言い上げた。手代は呆気にとられたように、息巻くを見ている。

「いくら女に言い寄られたって、あんたは少しも喜んじゃいない。そうよ、あんた、あんたって、女がこわいのよね」
「なに言ってやがる」

 手代は明らかに顔色を変えた。

「こわいのよ。おそろしいの、女が」

 言ったとたんに、目の前の男が哀れに思えた。女がおそろしいのだ。はなぜだか、そうに違いないと思えてならなかった。視界が霞み、涙が出てきた。にはもう、わけがわからなかった。
 顔を覆うを見下ろし、息をついたあと、手代はおもむろに話し出した。

「あんたの言った通り、俺は遊びが過ぎたせいで親に勘当された。そのころ俺には皆川っていう馴染みの女郎がいて、勘当されたばかりの俺にその女が心中をもちかけた。俺はやけになってたから話に乗った。でもすぐに女の揚屋のやつらがそれを聞きつけて、止めに入った。俺はやっぱり死ねなかった。命が惜しかったんだ。でもその後、女はひとりで喉掻き切って死んだ」

 手代はそこまで話すと一息置いた。
 皆川は犬死にだと思った自分は女心を持ち合わせていないのだろうか。はうつむいた。

「女はなんで男のために死ねるんだ。わけが分からねぇ。あんたは、男のために死にたいと思ったことがあるか」

 は下を向いたまま、首を横に振った。
 犬死にだ。もし、皆川が手代を思うのと同じぐらい、手代が深く皆川を思っていたなら、こんなところで奉公なんてしていないはず。新しい町で、新しい人として生活をしている。皆川のこともすべて捨ててきたのだ。この男に皆川が唯一残したのは、女へのおそれだけ。
 手代は笑った。

「だろうな。だから俺は、さんだけはおそろしくねぇんだ」

 落ちた筆を拾い上げた後、手代はの肩を掴み、顔を上げさせた。

「あんたはそんな女になるなよ。あんただけは」

 そう言った手代と目を合わせたとき、は息を飲んだ。涙こそ見られなかったが、手代の目が充血しているのだ。
 違う。その女郎は、ただの犬死にではなかったのかもしれない。
 そう思いながら、は静かにうなずいた。


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