じとじとと肌に心地悪い天気が続いた。この時期は木も湿ってしまって、どうもいけない。小太郎は板削りの手を止め、鉋を置いた。妻のは、えじこの中で眠る勝太郎の隣で繕い物をしている。お手玉で遊んでいたおたまは父が手を休めているのに気付くと、小太郎の元へたとたと歩いて来た。

「おとう、あそぼ」
「こら、おたま。お父さんは仕事中や」

 すかさずがそう言った。しかし小太郎は、頬を膨らませたおたまの手を引きながら、

「いいぞ。何をして遊ぼうか?」

と微笑んだ。途端におたまは目を輝かせた。

「そと!」

 小太郎は格子窓から外を覗いた。朝から降り続いていた雨は、もう止んだようだった。おたまに草履を履かせ、その小さな手を引いて外へ出た。
 所々に泥団子が置かれているので、おたまはそれを見つける度に立ち止まって、つまみ上げた。これが食べる団子ではないということは、以前小太郎に教えられたので分かっているのだろう。もう口に運ぼうとはしなかった。
 井戸端まで来ると、おたまは声をあげた。

「おとう!みてー!」

 井戸の近くには、紫陽花が咲いていた。青と紫のそれがたくさん花開いている。おたまは駆け出すと、紫陽花の前にしゃがみ込んだ。

「何ていう花か知ってるか?」

 小太郎は娘の隣に腰を落として訊いた。おたまは首を振った。

「紫陽花っていうんだぞ」
「あじさい?」
「そうだ」

 おたまは「あじさい」を何度も繰り返した。そうして青の紫陽花に顔を近づけると、

「あじさい。きれいやあ」

と言って目を閉じた。おたまは気に入ったものには何でも顔を埋める癖があった。
 紫陽花が纏った水滴が、おたまの頬を伝って落ちていく。

「ほんまに。綺麗やなあ」

 その声に振り向くと、勝太郎を背負ったが立っていた。おたまは母が来たので嬉しくなって、こっちこっちと激しく手招きした。はそんな娘の隣に来ると、紫陽花に触れた。

「母さんも紫陽花は好きや。どんなにぎょうさん雨が降っても、がんばって咲き続けてる。したたかな花やね」
「やね」

 母の真似事をした娘に笑いながら、小太郎はふと思った。
 物思いに耽ている様子の夫を気に留めて、「どないしたん?」とが首を傾げた。おたまも父を見上げる。「いや、な」と小太郎は言う。

「俺は棺桶を作ったりもするから、人の世が無常だということは悟っている。でも、お前たちとの時間は、生きる限り常に有り続けるものなんだと思うと、自分がいかに幸せ者なのか改めて知るんだ」

 そう言って照れ臭そうに笑った小太郎に、はいとおしさで涙が出そうになった。おたまは意味が理解出来なかったのか、ぽかんと口を開けている。そんなおたまを抱き上げ、ぷっくりとした小さな唇を指で優しく摘みながら、

「おとうは幸せだ」

と言うと、おたまは笑った。
 そうしてしばらく家族四人、紫陽花を眺めていた。小太郎の腕の中ではしゃいでいたおたまだったが、小太郎の首元に顔を埋めると、途端に静かになった。

「おたまは寝たのか?」
「あ、寝てる。いつの間に?ほんまに子どもはよう寝るなあ」

 小太郎は「子どもはよく寝て大きくなるのが仕事だからな」と笑った。そんな夫の肩に寄りかかると、は言った。

「私も幸せやで」




 ある日の黄昏時、は井戸で水を汲んでいた。仕事を終えた夫が現れるんじゃないかと、ちらちらと木戸の方へ目をやっている。
 小太郎は納品のため朝から出かけていた。染物屋の娘が亡くなったので、その棺桶を任されていたのだ。おたまと年の変わらない子どもの亡骸を納めるために小さな棺桶を抱えて家を出る夫の背を、は励ましながら送り出した。
 きゅるきゅると釣瓶を降ろしていると、とつぜん甲高い声が耳を突いた。
 おたま。
 途端には何もかも放り出して駆け出した。

「どうしたん!」

 勢いよく戸を開けると、おたまは畳の隅で耳を抑えて大泣きしていた。えじこの中の勝太郎も泣いている。見ると、土間に立つのすぐ側に、鎌首をもたげた蛇がいた。舌を出しながらおたまを見据えている。は目を走らせ、先の鋭い槍鉋を見つけると、それを引っ掴んで、蛇の腹めがけて振り降ろした。シャーッと反転して腕に噛み付こうとする蛇の頭をもう片方の手で掴み、腹に刺した槍鉋を引き抜き、そのまま頭に突き立て、めった刺しにした。
 動かなくなった蛇を見下ろして息を上げていると、「おかあ」と弱弱しい声で呼びかけられた。

「おたま……噛まれてへん?勝太郎は?平気なん?」

 おたまは何度も頷いた。しかし恐ろしいのか、の元へ駆け寄ろうとはせず、その場にぺたんと腰を下ろしたままこちらを見ている。

「待っててな」

 そう言って、は蛇をぶら下げて家を出た。母の後ろ背を見送ったおたまは、土間に広がった血だまりを見ると、恐ろしくなってまた泣いた。
 おたまの泣き声が聞こえる。は急いで井戸端まで来ると、周囲を見渡し誰も居ないことを確かめ、紫陽花の茂みに蛇を投げ込んだ。ご近所に蛇を殺したと知られれば、祟られるだのなんだのと言われてしまう。子どもを守るために仕方なかったのに、そんなことを言われちゃ堪らない。はそう思いながら紫陽花の足元を一瞥した後、家へ戻った。


 土間の土が吸い込んだ蛇の血は、水を掛けても掛けても、しばらく生臭さを放った。その夜帰宅した小太郎も臭いに気付いたらしく、真っ先にに尋ねた。するとは少し渋ったのち、蛇を殺したと答えた。嫌な顔をされると思っていたが、小太郎は存外あっさりとしていた。

「そうか。ちゃんと殺したのか?生殺しないけないと言うからな」

 言いながら、草履を脱いで畳に上がる。は味噌汁を運びながら静かに頷いた。

「蛇は執念深い生き物だから。しっかり葬っておいた方が良い」

 小太郎が座ると、おたまはその膝に登り、ひっしと首に抱きついた。小太郎もおたまの小さな体を抱き締め、

「まだ言っていなかったな。ただいま」

と笑った。


 は小太郎の言葉が引っ掛かっていた。夕餉を終えて洗い物を済ませると、外へ出た。
 あの時しっかりと確かめはしなかったが、きっと蛇は息絶えていたはず。そうだとしても、せめて土ぐらい被せてやろう。
 そうして紫陽花の茂みへ向かったが、亡骸はどこにも無かった。ああ、きっと野良犬が食べてしまったのだろう。そう思い、はそのまま家へ帰った。


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