あれ以来、と長左衛門は文を取り交わしていた。互いに誰にも知られぬように書きしたためて、の長屋と麹屋との中間にある地蔵の足元に置きに行っては、受け取りに行く。
 はじめの内は女房の尻拭いのために付き合っていた長左衛門も、文のやり取りを交わす内にその気になっていった。会いたくてたまらない、というような内容さえ書いてあった。一方のも、麹屋女房が憎いがためにやり出したのだが、次第に心から長左衛門に惹かれていった。

 そうなるともう家事や子どもの面倒もろくにせず、何度も地蔵と長屋を行き来しては長左衛門からの返事を待った。家で文は書けなかった。家の中では、小太郎の目が四六時中背に張り付いているような気になるからだ。地蔵の近くにあるお茶漬け屋で、お茶漬けを頼むだけ頼んで、それには一切手を付けずに文を書いた。店の者もそんなを気味悪がった。

 首筋まで真っ白で美しかったの顔は、今では土気色になり、目も窪んで、見るからに普通の状態では無かった。梅雨なのに、寒い寒いと呟いては冬物の半纏を羽織り、朝も遅くまで眠った。それでも数日に一度は、朝早くから土間に立って朝餉の支度をし、いつも通りの生活をするので不思議だった。

 小太郎はどこへ行くのにも、二人の子どもを連れて歩くようになった。おたまは母を恐ろしがるのだ。の胸に顔を埋めるのを最後に見たのはいつだったか。勝太郎には、も胸が張るのか乳を与えたが、飲ませている間もずっと遠い目をしていて、胸の赤ん坊を見てはいなかった。
 そんな状態のに、子どもは任せておけなかったのだ。何があったのか、どうしたのか。そんな簡単なことでさえ、小太郎も訊けなくなっていた。

 それに、近頃よく、の顔を見ていると、前に蛇を殺したと言っていた時のことを思い出した。紫陽花の茂みに蛇を放ったままだったから、ちゃんと土を被せて葬ろうと思ったけど、もういなかった。野良に食われたんだと思う。がそう話した時、小太郎の頭には「穴惑い」という言葉が思い浮かんだ。
 冬眠から覚めた蛇は、春に穴から出て、そしてまた彼岸になると地中へ潜る。しかし彼岸を過ぎても穴に入らない蛇がいる。そのことを穴惑いと言うのだと、小さい頃寺子屋で教わった記憶がある。花の下に寝かせたはずなのにというの話に、その蛇は穴惑いならぬ、花惑いなんじゃないだろうかと思った。
 しかしはそう言う小太郎を、冗談はやめてと笑い飛ばしたのだった。今は梅雨だし惑うも何も、もう死んでるんだから、と。



 ある日、桶の修繕を頼まれていた湯屋から帰っていると、おたまが団子を欲しがった。小太郎の手をぐいぐい引っ張り団子屋まで連れて行こうとするので、小太郎は娘のわがままを聞いてやった。おたまはいつも、その小さな体で母に甘えられない辛さを耐えているのだ。

 店に入り、席に座るとすぐ、おたまは「みたらし!」と言った。言われた店の女は驚いたような顔をしたが、すぐに笑って「はいよ」と頷いた。小太郎も目を丸くしていた。

「そんなに団子が好きだったのか?」
「あのね、おかあが」

 そこまで言うと、おたまは口をつぐんだ。そうして今にも泣き出しそうな顔をしたので、小太郎はその頭を撫ぜた。

「みたらしは旨いからな」

 言いながら、昔のことを思い返していた。

 伊勢へ抜け参りに行ったときのことだ。
 こさんという仲介人の婆のおかげで、小太郎は好いて仕方が無かった女と抜け参りの旅が出来ることになった。こさんとの事前の話し合いで、荷物を持って堺で落ち合うことになっていた。夜明け前に家を出た小太郎は、時間よりももっと早くに待ち合わせ場所に着いて、女が現れるのを今か今かと待った。
 そうして、朝日が登ると共にこさん婆と女が現れたとき、小太郎は緩む頬を抑えきれなかった。仕事に没頭するあまり夜を明かした事が何度もある小太郎には、朝焼けは見飽いたものだった。しかしその時のあけぼのの空がひどく綺麗に思えたのは、その女の背景にあったからなのかもしれない。
 行こうかと言うこさんに、女は言った。腹ごしらえでもして行かないか、と。朝も早く、何も口にしていなかった小太郎の腹が鳴ったのを聞いてのことなのか、ともかくこの先に美味しい団子屋があると言って、女は先頭に立って歩いて行った。
 店に着く頃には朝日も登りきっていて、店の者がちょうど暖簾を掛けているところだった。店に入って席に座った途端、「みたらし!」と言った女に、こさんも小太郎も目を丸くした。

「お団子はみたらしが一番おいしいから」

 そう言って笑った時ののあの顔が、忘れられない。



 おたまの笑い声で小太郎は我に帰った。運ばれて来たみたらし団子に、手を叩いて喜んでいる。
 小太郎は背負っていた勝太郎を前に抱き直しながら、よく噛んで食べるんだぞと言った。大きく頷いて団子を頬張るおたま。うぅと声を出しながら、おたまと小太郎を交互に見上げる勝太郎。「おいしい」と嬉しそうに笑う娘と、舌を出した父の顔を見て笑う息子。
 何があっても、子ども達だけは守らなくてはいけない。
 無垢な顔で笑う娘と息子を見ては、そう強く思った。



 帰って来なくて良かったのに。
 は戸を開けて家へ入って来た夫と子どもを見て、舌を打った。

 長左衛門とはもう我慢が出来なくなっていた。今宵こそは、と文で取り交わしていたのだ。小太郎は、今日の仕事は長くなると言っていたはずなのに。長左衛門が店仕舞いをしてからこの長屋に来て、小太郎が仕事から帰って来るまで抱き合おうと決めていたので、かなり早く帰宅した小太郎に、話が違うじゃないかと苛立った。

 何も言わず蒲団を敷き出した小太郎と、その腰元にへばり付いてこちらを見ようともしないおたまに更に腹が立った。は「顔を洗ってくる」と言って家を出た。
 井戸に寄り掛かり、木戸に忙しなく目をやりながら、は乾く唇を舌で舐めて潤していた。紫陽花の茂みが目に入ると、踏み散らしてやりたい衝動にかられた。ぐっと体を前にして井戸から背を起こした時、木戸に人影が見えた。は駆ける。
 長左衛門だった。

「あかん、帰って来てしもうた。もう寝るみたいやし、表通りで待っといて下さい」

 が木戸越しに声を潜めてそう言うと、長左衛門は「分かった」と表通りへ戻って行った。は振り返り、今のやり取りを誰にも覗き見られていなかったかを目を走らせて確かめた。鋭い目付きであった。



 部屋の奥から土間に向かって、小太郎、おたま、の並びで蒲団が敷かれていた。いつもの事だった。土間に近ければ、おたまがいつ喉が渇いたと言っても、が水を注いでやりに行けるからだ。おたまがそんな事を最後に言ったのは、いつだったか。

 夜も深くなり、は静かに体を起こした。夫も子どもも深い寝息を立てている。
 そっと家を出て、木戸を押し開き、待ち構えていた長左衛門を裏通りへ誘った。そうして大胆にも我が家へ連れ込むと、蒲団に倒れ込み、出来る限り音を立てずに睦み合い始めた。すぐ隣では夫と子どもが何も知らずに眠っている。それがいっそう心をくすぐった。
 寝間着が乱れて、長左衛門も褌を外そうと手を掛けた。はやくはやくと長左衛門の胸を突いた、その時だった。

……」

 その声に、ぴたりと二人の動きは止まった。小太郎が体を起こしてこちらを見下ろしている。の中の、何もかもが引いていった。長左衛門は着物を引っ掴むと、褌一つのまま長屋を飛び出して行った。するとその音に、間で眠っていたおたまがぐずり泣き出した。
 小太郎は体を露わにしたままのから目を離し、寝ぼけて泣くおたまの腹に優しく手を置いた。そうやってなだめながら、言ったのだ。

「よしよし。母さんはすぐ戻って来るからな」

 あ、ああ、あァ、ア。
 ぐらぐらと体が揺れた。腹の中が暴れている。
は跳ね起きて土間に下りた。そうして目に付いた槍鉋を取った。
 蛇や。私やない。あの蛇の仕業なんや。

「――堪忍」

 そう言い残すと、は槍鉋で胸をひと突きした。それを引き抜き腹に突き立て、そうして、息絶えた。
 倒れたの血を土が吸い込んでゆく。ドサ。の腹の上に、天井から細い蛇が落ちて来た。ちろちろと舌を出しながら、の体を這っている。
 小太郎は土間に下り、からその蛇を払い落とすと、思いきり踏み付けた。尻尾を掴んで何度も床に叩きつけ、頭を割った。
 そうして、何も知らずに眠り続ける二人の子どもを抱きかかえると、妻と花惑いの蛇を一瞥した後、夜に消えていった。




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(2011.2.18)

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