第四話 不穏



 この大学の剣道場からは、キャンパスの裏手にある寺の駐車場が見えた。その寺には、歴史に名を残す武将の墓がある。観光客が後を絶たないのは、その墓の存在以外にも理由があった。庭園が見事なのだ。春夏秋冬で表情を変えるその庭を見るために、国内外問わず多くの観光客が寺を訪れるのだった。
 今日も今日とて、駐車場には大型の観光バスが停まっている。杏寿郎は道場の外にあるベンチに腰掛けながら、バスから降りてくる人々の姿を遠巻きに眺めていた。杏寿郎の膝の上には、赤い巾着袋が乗っている。杏寿郎は巾着の紐を緩めて、中からアルミホイルで包まれたおにぎりを取り出した。部活の合間にお腹が空いたら食べてね、と言ってが差し入れたものだった。 
 杏寿郎は、が少し照れくさそうに笑って「実家から明太子がたくさん届いてね」と言っていたことを思い返しながら、おにぎりをまじまじと見つめる。彼女がこうして差し入れをくれることは、めずらしくはなかった。米がぎゅっと詰まった、大ぶりのおにぎり。杏寿郎は、頬をふっと綻ばせた。

「いただきます」

 そう言って、口を大きく開けたときだった。

「あっ、煉獄せんぱーい!」

 手をぶんぶんと振りながら小走りで駆け寄って来る、胴着姿の女子学生。この春入部したばかりの一年生だ。以前、杏寿郎が今のように休憩を取っているときにこのベンチで相席になり、地元も同じということで会話が盛り上がった。

「今日はおにぎりなんですね。具はなんですか?」

 彼女はにこにこと笑いながら隣に座り、杏寿郎の手元を覗き込む。

「明太子おにぎりらしい!」
「らしい? 先輩が作ったんじゃないんですか?」
「これは俺の――幼なじみが、丹精を込めて握ってくれたものだ!」

 杏寿郎が一瞬言葉を探すように視線を下げたのを、彼女はどこか観察するような目で見ていた。しかし「幼なじみ」という言葉に、ふぅん、と喉を鳴らす。

「いいですね、明太子。私も好きです」
「君も食べるか?」
「えっ、いいんですかー?」
「丁度あともう一つあるんだ」
「いやー、でも……」
「腹が減っては戦はできぬと言うからな。この後の練習に備えて力を補給しておくといい!」
「そうですけど、悪いですよ。だってこれ、幼なじみの方が煉獄先輩のために握ってくれたんですよね?」
「問題はない。この握り飯が、俺だけではなく他の部員の力にもなったと知ったら、きっとは喜ぶはずだから」

 差し出されたおにぎりを手に取りながら、

「……へえ。さんっていうんですね」

 感情のこもらない声でそう呟く女子学生の隣で、杏寿郎は「そうだ!」と、どこか誇らしそうに頷いた。

「では遠慮なくいただきまーす」
「うむ!」
「すごく大きいですね。私ちゃんと食べきれるか――ああっ!」

 アルミホイルの包みを剥いていた彼女の手から、おにぎりが落ちてしまった。ごろごろと地面を転がっていくのを、杏寿郎はすかさず腕を伸ばして拾い上げた。しかしすでに砂を纏ってしまい、とても食べられる状態ではなくなっていた。女子学生は「ごめんなさい」と身を小さくさせている。杏寿郎は砂だらけになったおにぎりを丁重に巾着袋へと戻しながら、「気にするな」と言った。しかしその声は、普段より数段低かった。

「俺の分を食べるといい」
「……え?」
「腹が減っているんだろう。さっき、腹の虫が鳴るのが聞こえた」

 女子学生は気恥ずかしそうに唇を噛んだ。杏寿郎は自分が食べようとしていたおにぎりを彼女に渡すと、

「俺は先に道場へ戻る。君は何も気にせず、ゆっくり食べてくれ」

 そう言って、くるりと背を向け、道場の方へと歩き去って行った。
 杏寿郎の後ろ姿が完全に消えたのを確認すると、女子学生は気だるそうに息を吐く。そうして、近くの草むらへ向けておにぎりを放り投げるのだった。


 その数時間後。稽古を終えた杏寿郎が道場から出ると、剣道部の一年女子が数人集まって、何かを話し合っている様子だった。ベンチで隣り合わせたあの女子学生がうずくまっていることに気づき、杏寿郎は足を止める。

「どうかしたか?」

 声を掛ければ、彼女はどこか気まずそうに言った。

「お腹の調子が悪くて……」

 その言葉に、「やっぱり何か変なもの食べたんじゃない?」と周りの女子たちが口々に言う。

「んー……私今日はまだおにぎりしか……」

 力なく返した彼女に、杏寿郎は眉根を寄せた。具は、と問われて彼女が「明太子」と答えると、「傷んでたんじゃないの?」と声が上がる。そんなやりとりが続く中、杏寿郎は女子グループの間に割って入った。そうして彼女の前で膝を折る。

「病院に連れて行こう」

 眉間に深い皺を刻んだ杏寿郎に、彼女は弱ったように首を振る。

「病院に行くほどではありません」
「では家まで送る」
「……大丈夫ですよぉ」
「だが俺が渡した握り飯が――」

 そんな杏寿郎の言葉を遮るように、彼女は人差し指を口に当てて「しーっ」と息を吐いた。周りに聞かれたらまずいことなのだろうかと思いつつも、杏寿郎はこくりと頷く。

「なんだか良くなってきました。煉獄先輩に心配してもらえたからかなぁ」

 ふふっと笑った女子学生に、杏寿郎は首をわずかに傾げながらも「そうか」と安堵をにじませた。彼女はおもむろに体を前に倒すと、杏寿郎の耳元にこう囁くのだった。

「幼なじみの方、さんでしたっけ。彼女には言わないでくださいね、私がおにぎりでお腹壊したってこと。きっと責任を感じてしまうだろうから」





「そういえば杏寿郎、この間の明太子おにぎりどうだった?」

 英語の授業後、と杏寿郎、天元の三人は、キャンパス内のいつものベンチで次の講義までの時間を潰していた。の言葉に、杏寿郎は目を見開いたまま、

「あ、ああ、うまかった」

と、明らかに動揺した素振りを見せた。は訝しげに眉根を寄せ、天元の方を見る。どう思う、と意見を問うようなその眼差しに、天元はわざとらしく口をひん曲げながら肩をすくめた。

「煉獄せんぱーい!」

 まるで綿菓子のようにふわふわとした甘ったるい声が落ちてくる。三人は、ベンチのすぐ向かいにある棟を見上げた。二階の講義室の窓から顔を覗かせた女子学生が、こちらへ手を振っていた。杏寿郎がぎこちなく手を振り返すと、彼女は嬉しそうに笑った。そうして「また部活で」と言葉を残し、窓の向こうに消える。
 押し黙る杏寿郎との横で、天元は物分かり顔で「へえ」と唇の端を緩ませた。そんな天元の反応に、杏寿郎は慌てた様子で立ち上がる。

「しまった! 道場に忘れ物をした! あれがないとこの後の講義に差し支えるから、俺はこれで失礼する」

 と天元の言葉も待たず「またな」と走り去って行く杏寿郎。その背を見つめながら、は静かに口を開く。

「ねぇ、宇髄くん」
「んー?」
「なんか今日の杏寿郎、影があったよね」
「あいつに影なんかできんのか? 年中無休の快晴男だろ、あれは」

 は「何それ」と首を傾げる。天元はベンチに背をもたれ、空を仰いだ。雲一つない晴れ。昨夜の土砂降りが嘘のようだった。

「俺とは違うタイプのヤツってこと」

 は納得したのかしていないのか、どちらとも取れない曖昧な表情を浮かべる。そんな彼女に、天元は胸の内で呟く。
 ――本当の関心はそこじゃねーだろ。さっきの女は一体誰なのか、それが気になって仕方ないんだろ。

「宇髄くんも晴れタイプだと思うけどな」

 しかし天元の思いとは裏腹に、は、先ほどの杏寿郎と女子学生とのやりとりなど見なかったかのように、いつもの調子で話を続けるのだった。

「俺が?」
「ただし、大雨の次の日の晴れ、だけどね」
「……なんだそりゃ」
「ちょうど今日みたいな日だよ。空はこんなに晴れてるのに、マンホールの下からは轟音が聞こえる……みたいな?」

 が指す方へと目をやると、そこにはマンホールがあった。天元は快晴の空を見上げ、また地面へと顔を向ける。確かに、あの重厚な鉄の蓋の下からは、濁流の音がする。すっかり止んだと思った昨日の大雨が、地面の下ではまだ続いているかのようだった。

「……そんなん聞こえてんの、お前だけだわ」
「宇髄くんだって聞こえてるでしょ。耳いいんだから」

 ――蓋をしたつもりでも、分かるやつには分かってしまうのか。
 天元はどこか腹の中を覗かれたような気持ちになりながら、平然を装いつつ言う。
 
「お前さー。大雨の次の日は空気が澄んでるよね、とか、そういうポジティブっつーか、もっとかわいいこと言えねぇのかよ」
「虹もかかるよねーとか? あいにく私はそんなメルヘン女子じゃないので」

 ごめんあそばせ、と揶揄うように言いながら、は息を漏らすように笑うのだった。




(2022.05.21)

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