第七話 もう遅い



 この街で過ごす、二度目の夏が来た。
 絵の具を塗りたくったような青青とした空に、もくもくと浮き立つ入道雲。そんな夏空の下、多くの大学では、夏期休暇の前にそびえ立つ前期試験という壁に向けて、酒よりもペンを手に持つ学生の姿が目立った。
 も図書館に通うことが増えたが、天元はというと、試験勉強はそこそこに、バイトのシフトを増やしていた。今までの天元ならば、浮ついた学生たちが考えそうな「夏といえば祭りに海」を小馬鹿にしていたが、と付き合い始めてからは、その思考が変わった。「夏 カップル デート」と検索しては、と過ごす時間を思って頬をゆるめていたのだった。

「夏休み、どっか行きたいとこあるか?」

 学食で杏仁豆腐をつついていたは、不意に投げかけられた言葉に「えっ」と目を丸くした。

「行きたいところ?」
「おう。どっかの祭りとか、海見に行くとか、花火大会とかでも」
「うーん……人が多いところはちょっと」

 その答えに、考えていたプランの半分以上が消滅した。天元は動揺する気持ちを隠しながら、「人ごみ苦手なんだっけか」とアイスコーヒーを一口飲む。はこくりと頷き、

「そうだなあ……行きたいところ……」

と、杏仁豆腐を見つめながら呟く。
 デートらしいデートはまだしていなかった。いつも天元がの家へ行き、二人で食事をしながらテレビや映画を見たり、ギターを弾く天元に合わせてが歌を口ずさんだり、だらだらと話したりするばかりだ。
 は天元の海外放浪の話が好きだった。どこの国で会った誰々がどうの、という話に、はくすくすと笑う。例えば、イタリアでの話。脱いで置いておいた靴の片方を、見知らぬ男に奪い取られた。何が起きたのかと理解できずにいると、男から「この靴をお前に売ってやる」と迫られたのだ。その話をしたとき、は目を見張って「賢い泥棒だね」と感心していた。自分の靴を売りつけられた俺の気持ちになってみろよ、と言えば、「そのときの宇髄くんを想像したら……」と言葉がつなげないほどに笑っていた。
 に話すことで、良い思い出はより鮮やかに、苦い思い出は少しはマシなものに思えた。じゃあ今度は、共通の思い出をつくりたい。その中でがどんな表情を見せるのか知りたい。そう思った。だから、シフトを増やして金を貯め、夏休みのデートの足しにしようと考えていたのだ。

「あ、あそこは?」
「ん?」
「ほら。北の方にある里山。平家物語にも出てくる場所だから、いつか行ってみたいと思ってたんだよね」

 そう言いながらスマホを見せてくるに、「さすがは国文学専攻だな」と言えば、彼女は「一般常識だよ」とにんまり笑って見せた。のスマホには、棚田の広がる里山の風景が映し出されていた。

「へえ。バイクでも行ける距離だな」
「えっ、もしかして私も乗せてくれるの? ついに?」
「なんだよ。別に乗せたくなかったわけじゃねーよ。メットが一つしか無かっただけで」

 天元は自分のスマホで地図を確認し始める。その様子を、は口元に手を当てながら見つめていた。

「……なんだァ?」
「ううん」
「喜んでんのか?」
「そう見える?」

 の口角はいつもより上がっていた。どうやらバイクに乗れるのが嬉しいらしい。思い返せば、「風を切って走るのってやっぱ気持ちいいの?」と何度か聞かれたことがある。そんなに乗ってみたかったのかよ、と、天元は息を漏らすように笑った。
 用のヘルメットを買っておこう。そんなことを考えていると、ふと視線を感じた。その方へと目を向けてみれば、そこにはトレーを手にした杏寿郎が、その場に突っ立つようにしてこちらを見つめていた。は気づいていないようで、スマホを見ながら「楽しみだなあ。試験頑張ろうっと」と声を弾ませている。
 杏寿郎が一歩、こちらに向けて足を踏み出した。天元は視線を逸らすことなく、その動向をうかがっていた。しかし杏寿郎はすぐに足を止め、後ろを振り返った。例の彼女がこぼれんばかりの笑顔で杏寿郎の腕に絡みつき、そのまま天元たちとは反対側の席へと向かって行くのだった。




「これお前用。ねずみ色な」

 はマンション前に停められたバイクと、それに跨る天元の姿に息を漏らした。そんなにヘルメットを渡すと、彼女は「ねずみ色」という天元の言葉が気になったようで、「グレーでしょ」とすかさず返した。けれどその後で、

「ありがとう」

と、はにかみながら言うのだった。
 前期試験が終わり、夏休みに入った。天元はできるだけと過ごせるようにと、シフトを少し減らした。そうして夏休み初日の今日、約束していた里山へと向かうため、朝一番でのマンションまで迎えに来たのだった。
 後部シートに跨る際、は遠慮がちに天元の肩へ手を置いた。走行中はしっかり掴まっておくように言えば、「掴むってどこを?」と首を傾げる。

「肩でも腰でも、どこでも」
「肩に手を置かれてると重くて負担じゃない? 腰だと、くすぐったくない?」

 天元は疑問符ばかりを浮かべるの両腕を掴み、自らの腰に回す。引っ張られた拍子に、の体は天元の背中にぴったりとくっ付いてしまった。

「いいから。こうしとけ」

 の「はい」という声は、エンジン音にかき消される。バイクが振動し始めた途端に、の体が緊張でこわばったのが分かった。天元は自分の胴にひしと回されたの腕を見おろし、ぽんぽん、となだめるように叩いた。

「んじゃ、出発するぞ」
「はい!」

 肩越しに掛けられたその弾む声に、天元は噴き出すように笑った。

 山道を抜けた先にある里山は、街よりかは幾分か涼しく、音も少なく、一言で表すととても長閑だった。寺社をめぐった後で食事をとり、棚田や清流を眺めながら散策し、最後は茶屋でかき氷を食べた。
 かき氷をつつきながら「なんか地味だな」と呟いた天元に、は首をぶんぶんと横に振り、

「贅沢な時間だよ」

と、それまで見せたこともないような穏やかな顔で言うのだった。



 は帰宅してからも、バイクで浴びた風が忘れられない、まだ体が揺れてる気がする、と興奮冷めやらぬ様子で繰り返していた。天元が「また乗せてやるよ」と言えば、「そんなの申し訳ないよ」と言いつつも、ゆるむ唇をもごもごと動かすのだった。
 天元はそんなに風呂へ入るよう促し、里山で買った野菜や酒を冷蔵庫へ入れ、晩酌用に軽くツマミでも買ってくるか、と財布を手に玄関へ向かった。その気配に気づいたのか、

「どこか行くのー?」

というの声が、浴室から飛んでくる。

「買ってきた酒、このあと飲むだろ? なんかツマミでもと思ってな」
「あ、それなら冷蔵庫にお惣菜が入ってるから、それ食べようよ。あと今日買ったお漬物もあるでしょ?」

 しっかりしてんな。そんなことを思いつつ「おう」と返事をすれば、それを真似て「おう」と返ってきた。

「宇髄くんも後でお風呂入るでしょ? おつまみは私が用意するから、ゆっくりしてて大丈夫だよ」
「あーそう? なら漬物だけ出しとくわ」

 「ありがとう」という言葉を背に、浴室のすぐ目の前にある台所で、天元は小皿に漬物を盛り始める。そうして居室へと戻ると、ローテーブルに皿を置き、座椅子にどっかりと腰掛けた。
 今日の運転は、いつも以上に神経を使った。後ろに乗せたが転がり落ちてしまわないようにと速度を落とし、カーブを曲がるたびに声を掛けた。

「……悪いもんでもねぇな」

 肩を揉みながら、そう独りごちる。心地よい疲労感とは、このことを言うのだろう。腰に回された腕の感覚が、背中に当てられていた京香の体温が、まだ残っているように思えた。
 天元は満たされたようなため息を吐きつつ、ポケットからスマホを取り出す。誰からも連絡は来ていない。と付き合い始めてから、今まで関係を持った女の連絡先も、そうでない女のものもすべて消した。今ではこのスマホに連絡をしてくる相手は、かバイト先、大学のごくわずかな友人のみだ。
 スマホを開いたついでに、アルバムを立ち上げる。今日撮った写真を見返しながら、天元はふっと笑う。景色を撮るふりをしてを写していたら、「盗み撮りしてる?」とすぐに気づかれた。カメラを意識してつくる表情じゃなく、自然体な姿を撮りたかったのだ。そう伝えると、は少し照れたように「じゃあいいよ、盗み撮りしても」と言った。

「間抜けな顔」

 かき氷を頬張るの写真を見ながらそう笑ったとき、インターホンが鳴った。宅配かと思ったが、それにしても時間が遅すぎる。天元は立ち上がり、テレビモニターを覗く。そこに映った人の姿を認めると、天元は何も言わずに解錠ボタンを押すのだった。
 玄関へ向かい、ドアを開ける。浴室からはシャワー音が漏れている。にはインターホンが鳴った音も、こうして天元がドアを開けた音も聞こえてはいない様子だった。
 エレベーターが開く音がし、外廊下の角から現れたその人に向けて、天元はドアを片肘で押し開けたまま言った。

「何? あいつなら今、風呂入ってるけど」

 杏寿郎は天元の姿に一瞬目を見開いたが、ぐっと奥歯を噛み締めるようにした後、

「では待たせてくれ」
 
 低い声でそう返した。
 杏寿郎は、押し黙っている天元の方へと近づいて来る。天元は目を細め、杏寿郎を見おろしながらゆっくりと口を開いた。

「すごいよな、お前。いくら幼なじみとはいえ、この時間に彼氏持ちの女の家に来るなんて」
「……に話があるんだ」

 話ってなんだよ。そう言いかけたとき、浴室のドアが開く音がした。この家には脱衣所がない。はいつも浴室ドアの横にあるラックにバスタオルを置き、風呂に入るのだ。つまり全裸のが今まさに、浴室から出てくるところだった。天元はとっさに玄関扉を閉めた。「わ!」というの小さな悲鳴が後ろ背に突き刺さる。

「う、宇髄くん……お風呂入ってる間はこっちに来ちゃだめだって……」
「悪ィ。見てねぇし見ねぇから大丈夫だ」
「絶対に振り向かないでね、ちょっとだけ待ってね、今服を――」

 天元がドアノブから手を離したときだった。目の前の玄関扉が突然開き、生ぬるい夜風が前髪を攫った。



 杏寿郎が意を決したような表情で、天元の肩越しにを見据えていた。天元はゆっくりとの方を振り返る。彼女はバスタオルを体に巻き付け、片手に下着を持った状態で、石のように固まっていた。


 居室に通された杏寿郎は正座を崩さぬまま、ローテーブルに肘を突いて鋭い視線を投げてくる天元から逃れるように、テレビへと焦点を絞っていた。

「ごめんね、お待たせ」

 部屋着を身に着け、首からタオルを下げたが居室へと入ってきた。杏寿郎はの方へと顔を向ける。天元の知る限り、杏寿郎とはあの日から一度も二人きりで会ってはいない。言葉も交わしていないはずだ。その証拠に、杏寿郎を見るの顔には緊張がにじんでいたし、杏寿郎もどこか落ち着かない様子だった。

「突然どうしたの?」
「……俺は――」
「お前に話があんだとよ」

 天元は杏寿郎の言葉を遮るようにして言うと、「あーあ」と立ち上がる。

「まーたちゃんと拭かなかっただろ」

 の髪の先からは、水がぽつぽつと滴り落ちている。天元はの首に巻かれたタオルを取ると、ごしごしと頭を拭った。

「ドライヤーは後でな」

 天元に髪を拭われながら、は少し気まずそうに唇を結び、杏寿郎へと目を向けた。しかし杏寿郎と視線が合った途端に、天元のタオルで視界を阻まれるのだった。

「彼女とは別れてきた」

 タオルを動かす天元の手が止まる。その手の下で、は再び静かに杏寿郎へと視線を流した。

「ふーん。……で?」

 束の間の沈黙を破ったのは、天元だった。

「それをなんで今言いに来たわけ?」

 それは体の奥底を冷やすような声色だった。天元は杏寿郎の方を見やり、言葉を続ける。

「お前さぁ、俺の存在忘れてねぇか? こいつは俺と付き合ってんだけど」
「……百も承知だ」

 杏寿郎は立ち上がると、と天元の方へと近づく。そうして天元を一瞥したのち、に向けて言った。

「今日はそれだけを伝えに来た。邪魔をしてしまってすまない」

 居室のドアを開けて玄関の方へと進んでいく杏寿郎に、は「杏寿郎」と息を漏らすように呼びかけた。

「待って。外まで送る――」
「行かせるかよ」

 一歩踏み出したの腕を、天元の大きな手が掴み取った。その力強さに、は眉尻を下げながら「宇髄くん?」とかすかに声を震わせた。そこに潜む恐怖の色に気づき、天元は手を離す。そうして腰をかがめ、の目線の高さに合わせて言った。

「俺が行くから、お前は髪乾かしてろ。な?」

 やさしくの頭を撫でると、玄関扉を押し開けて行った杏寿郎の後を追うのだった。



「煉獄」

 マンションを出て右に行けば、そこには小さな商店街がある。夕方過ぎには閉まる店ばかりなので、深夜には人通りもほとんどない。自転車を押して歩く杏寿郎に声を掛ければ、彼はぴたりと立ち止まった。
 街灯に照らされた杏寿郎から、細く長い影が伸びている。天元はその影を見おろしたのち、こちらを振り返る気配のない杏寿郎の後ろ背に向けて言った。

「今日はそれだけ伝えに来た、って? じゃあなんだ。明日は別の何かを伝えるつもりでいんの?」

 ざあっと吹く、夏の夜の風。表通りの居酒屋からかすかに漏れ聞こえてくる声だけが、二人の間に流れる沈黙を申し訳程度に埋めていた。
 杏寿郎が振り向くのと、天元がその影を踏みながら距離を詰めるのは、ほとんど同時だった。

「宇髄、俺はのことが――」
「お前が入る隙とかねーから」

 ――快晴の男だとばかり思っていた。曇りなど一つもなく、いつも憎いぐらいにまっすぐな光を放つ男だと。けれどこいつも、こういう表情をするのか。煌々としていた目を、こんなにも曇らせて。きっと、こんな顔をさせられるのは、だけなのだろう。
 でももう、遅い。

「今さら気づいたって、もう遅ぇんだよ」



 マンションに戻った天元を、は今にも泣き出しそうな顔で出迎えた。

「まだ乾かしてなかったのかよ」

 濡れたままの髪にふっと笑い声を漏らした天元は、の腕を引いて座椅子に腰掛ける。そうして自分の膝の上を指し、
 
「ほら。ここ座れ」
「……え、いやそこは……」

 は言葉を濁しながら天元の隣に腰掛けた。
 いつもの天元であれば「冗談だよ」と笑ってみせる。しかし彼は何も言わずドライヤーを手に取り、コンセントへとプラグを差し込む。その姿に、は頭の中で渦巻いていたさまざまな言葉を呑み込み、一言だけをぽつりとこぼした。

「宇髄くん、なんか怒ってる?」

 天元はドライヤーを置いた。そうして、不安げな色を浮かべるに、ゆっくりと横目を流す。

「なあ、お前って」

 不意に落ちてきた影に、は目を閉じた。天元はその反応に、ハッと短く笑う。

「宇髄くん……?」
「お前ってさ」

 濡れた髪を掻き分ければ、白い首筋が現れた。天元はそこへキスを落とす。

「……っ!」

 身を反らしたの肩を掴むと、首筋から喉元にかけて唇を這わせる。

「……ちょ、っと……うず――」
「なあ」

 首元へのキスの合間に舌でちろりと舐めれば、の体はぴくりと跳ねた。
 天元はそこで動きを止め、の耳にねじ込むように言うのだった。

「今、誰のこと考えてんの?」




(2022.06.25)

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