第九話 星の夜



 ――そばにいるのが、当たり前だと思っていた。

 バーベキューから帰ったその夜。なかなか寝付けずにいた杏寿郎は、寮の屋上で空を見上げていた。こうして夜空を眺めるのは、本当に久しぶりだった。
 元彼女である後輩からの着信が鳴り止まない携帯は、すでに電源を切り、自室に置いてきた。怪我をさせてしまった罪悪感から彼女の告白を受け入れたのは自分だ。別れてほしいと一方的に告げたのも自分。とても残酷なことをしてしまったと、心から思う。罪に罪を塗り重ねたような気持ちでいたため、別れた後も彼女からの連絡を拒むことはなかった。最初のうちは泣きすがるように「もう一度付き合ってほしい」と言っていた彼女だったが、今日のバーベキューにも参加していると知ってからは態度が豹変した。のことを罵るようになったのだ。――杏寿郎は、何度も耐えた。けれど今日ついに、押さえ込んでいた感情が溢れてしまった。
 河原でと天元と三人で線香花火をしたとき、恋しい、と思った。心の底からそう思った。の朗らかに笑う顔が、「杏寿郎」と呼びかける声が。当たり前だと思っていたのだ。がそばにいるということが。この時間がずっと続いてほしいと思った。けれどそれは叶わなかった。元彼女からの着信で、現実に引き戻された。それが、憎らしく感じた。
 そうして杏寿郎は、電話の向こうで口汚くをけなす彼女に告げた。に対する気持ちを、正直に打ち明けたのだ。十分に間を置いたのち彼女から返ってきたのは、知ってた、という一言のみだった。

「……あ――」

 薄雲の広がる空を、何かが横切った。流れ星か、飛行機か。杏寿郎の耳には、「流れ星って本当に見えるものなの?」というの声が蘇った。
 杏寿郎は息を深く吐きながら、瞼を閉じた。そうしてあの日の記憶を、ゆっくりと手繰り寄せる。



 とは、高校入学後の新入生オリエンテーションで班が同じになり、そこで初めて言葉を交わした。
 緑豊かな田舎町にある宿泊施設で過ごす、二泊三日の研修。入学したばかりなので、まだ互いのキャラクターはもちろん、名前と顔さえ一致しない状態だ。そんな研修初日に行われたのは、グループディスカッションだった。議題は、高校生がバイトをすることは許可されるべきか否か。進行役の生徒がみなに意見を求めようと口を開くその前に、杏寿郎は威勢よく手を挙げた。

「働きたいという意欲を潰してしまうのはもったいない! アルバイトを通して得られる社会経験や人間関係はかけがえのないものであり、それらは勉学だけでは身につかないことばかりだろう。だが! 俺は器用ではないから、学業とアルバイトを両立する自信はない!」

 グループの誰もが目を丸め、口を開け放していた。少しの沈黙の後、「許可されるべきか否か、煉獄くんはその立場を明確にしてから発言してください」と進行役から諌められると、

「すまないリーダー! 緊張して力みすぎてしまった!」

 そう歯切れよく返した杏寿郎は、はは、と少し照れたように笑うのだった。しかし杏寿郎の発言が突破口になったのか、その後は一人、二人と手が挙がりはじめ、議論は活発化していった。その中で杏寿郎を盗み見るようにしていたのが、だった。


「そんな暗がりにいたら蛇に噛まれるぞ」

 その夜行われたキャンプファイヤーで、杏寿郎は輪から少し離れたところに座っているに目を留めた。不意に声を掛けられたは「えっ」と肩を震わせ、きょろきょろと辺りを見渡した。

「ここって蛇が出るの……?」
「さあな! だがその茂みはかなり怪しい」

 すぐ後ろの草むらを指した杏寿郎に、は顔を強ばらせながら立ち上がった。

「こっちに」

 そう言って手招きする杏寿郎の向こうには、炎を囲んで談笑する生徒たち。その光景に気後れしてなのか、は首を横に振った。そうして、居場所を失ったかのように立ち尽くす。

「じゃあ、あっちに行こう」
「えっ、あ――」

 杏寿郎はの手を取り、暗がりの方へとずんずん進む。
 遠のいていく生徒たちの笑い声に不安を感じたのか、は声を振り絞った。

「れ、煉獄くん」
「なんだ?」
「あんまり遠くに行くと、先生に怒られちゃうよ」
「心配するな! 気づかれないうちに戻れば問題ないだろう」

 キャンプファイヤーが行われているグラウンドの裏手には、小高い丘があった。その頂まで登ると、杏寿郎はようやくの手を離した。

「……わあ」

 は天を仰ぎ、嘆声を漏らした。空一面に、無数の星が浮かんでいたのだ。杏寿郎もを真似るようにして星空を見上げる。空気が澄んでいるからか、手が届きそうなほどに近く見えた。

「煉獄くんはさ、みんなの前で指摘されても……傷ついたりしないの?」
「ん?」
「ほら、今日のディスカッションのときに」

 記憶をたどるように目線を左上に向けた杏寿郎だったが、すぐに「ああ、あれか」と頷く。

「リーダーが指摘したことは至極まっとうだった。なぜ傷つく必要が?」

 あっけらかんとしている杏寿郎に、は一瞬の間を置いたのち、噴き出すように笑った。

「煉獄くんはすごいなあ」
「そうか?」
「うん。なんというか……かっこいいよ」

 それからのは、張り詰めていたものが切れたように、柔和な表情を浮かべていた。二人はその場に仰向けになり、星屑を見上げながらあれこれと話をした。そのほとんどが杏寿郎の家族の話だったが、は話題を変えることも遮ることもせず、ただうんうんと聞いていた。
 そうして杏寿郎がひとしきり話し終えると、静かに言うのだった。

「煉獄くんの家は、お父さんもお母さんも優しいんだね」
「ああ。まあ、父に関しては優しさの種類が違うかもしれないがな」
「……どういうこと?」
「よく怒鳴るんだ」
「そうなの?」

 うちとおんなじだ。そんなの呟きは、「だが」と次の言葉を紡ぎはじめた杏寿郎の耳には届かなかった。

「その後で母にたしなめられて、しゅんと肩を落としている。誰も母には勝てない」

 両親の姿を思い浮かべているのだろう。杏寿郎は、短く息を漏らすようにして笑った。その横顔を見つめるは、いくつもの感情が織り混ざったような表情を浮かべていた。しかし、空を見上げたままの杏寿郎は、そんなの顔色の変化には気づかなかった。

「あっ!」

 杏寿郎の声に、はびくりと肩を上げる。

「今! 今の見たか?」
「えっ、なに?」
「流れ星だ! また見えるかもしれない!」

 杏寿郎は寝返りを一つ打ち、の方へと体を寄せる。寝返った拍子に付いたのか、杏寿郎の前髪の辺りには草が一本絡んでいた。

「……煉獄くん、髪に草が――」
「あっ、ほら!」

 杏寿郎はの手を取り、「あそこだ」と指し示す。

「あれって……飛行機じゃない?」

 うっすらと広がる灰色の雲の向こう側に、光が見え隠れしている。確かに流れ星にしては速度が遅かった。

「流れ星って本当に見えるものなの?」
「見える! さっき見たんだ。あれは流れ星だった」

 少しムキになっているのか、杏寿郎は唇の先を尖らせる。そんな様子を見て、は息を漏らすように笑った。
 
「煉獄くんといると、なんだか気持ちが上を向く」

 流れようとしている星がないかと瞬きもせず空を見つめていた杏寿郎だったが、の言葉に、視線を隣へと向ける。
 
「俺は君の笑っている顔を見ると、なぜだか嬉しくなる」

 えっ、と顔を横へ向けたは、ひどく驚いたように目を見開いていた。

「俺といることで君が元気になれるなら、いくらでもそばにいよう。そうすれば君の笑顔を見られて、俺の気持ちも上を向くからな!」

 なんの曇りもないその言葉に、の眉根はぴくりと震えた。
 
「……それって、つまりどういうこと?」
「どうとは?」
「そばにいるって……」

 それは消え入りそうな声だった。は唇を結び、眉尻を下げている。杏寿郎は淀みのない、ひたすらにまっすぐな口調で返すのだった。

「友達になろう、!」



 あのとき、は泣きそうな顔で笑っていた。その日以来、二人は何をするにも一緒だった。昼休みも、移動教室も、図書館でのテスト勉強も。唯一違う点といえば、自分が剣道部で、が帰宅部ということだけだと杏寿郎は思っていた。は自分のことをよく知ってくれている。だから、自分ものことは全部知っている。そう思っていた。
 それがとんだ思い上がりだったと知ったのは、の名字が変わった日だった。家で父親に殴られていたのだということにも、全く気づかなかった。
 ――俺はいつもそうだ。
 見落としてしまう。きっと、自分の見たいようにしか見えていないんだ。だってそうだろう。あんなにそばにいたはずなのに、彼女の苦しみや悲しみに気づけなかった。
 でもこれが宇髄なら、どうだっただろう。きっと出会ってすぐ、彼女が覆い隠した感情に気づいたはずだ。俺が見落としてしまうことにも、彼なら。

「俺は、宇髄に――」

 その言葉の先は、星の空に溶けて消えた。




(2022.07.17)

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