第四話 消えていく
歌舞伎を観に行った日から、煉獄さんとはめっきり会えなくなってしまった。
はじめの数日は、あの日の余韻に浸って、筋書きをぱらぱらとめくっては唇が勝手に笑ってしまっていた。しかし十日、二十日と過ぎていくと、何の音沙汰もないことに不安が募り、深いため息が出るようになった。
そうして、何か気に障ることをしただろうかと案じはじめていたある日、鴉がやって来たのだった。
『なかなか、いそがしく。
また、あおう。
れんごく きょうじゅろう』
三行を、私は何度も読み返した。
鴉はその間、急かすこともなく、じっとその場に佇んで待ってくれる。
「懐が広いんだね」
そう声を掛けると、鴉は少し誇らしげに鳴いた。やはり人の言葉を理解している様子だったので、私は続けて話し掛ける。
「煉獄さんに何か差し入れをしたいんだけど、運べる?」
鴉は黒曜石のような瞳をまっすぐに向けてくる。カァ、という鳴き声を「物による」という返事だと解釈した私は、何にしようか、と腕を組んで考え込む。
おそらく任務が立て込んでいるだろうから、手軽に口に入れられる、疲れがとれて、栄養のあるもの。
「あ、甘酒は? こぼしちゃうかな」
鴉は黙りこくって、私を見上げる。そうして飛び立つと、庭の松の木に止まり、カァカァと鳴いた。
どういう合図だろうかと思い縁側から庭先へ出ると、鴉はまた飛んで、今度は塀の上に止まった。
「……連れて行ってくれるの?」
返事の代わりなのか、翼をばさばさと広げた。
ゆっくりと飛ぶ鴉を目で追いながら、人波を縫う。甘酒を入れた水筒を胸で守りながら、すみませんと言いつ、人々を追い抜く。
往来の激しい場所は苦手だった。「お嬢さん、話を聞いてほしい」「私の家はどこ」「お母さんに会わせて」。そんな声が、頭に流れ込んでくるのだ。
特にこの通りは声が多い。汽笛の音がして、ここが駅前であることに気づいた。行く人、来る人で混み合う駅には、たくさんの想いがあふれている。
それでも煉獄さんのもとへ導いてくれている鴉を見失うまいと、片方の耳を塞ぎながら前へと進む。
鴉があるところで旋回しはじめたので、私は視線を下げ、行き交う人々に目を細める。
「煉獄さん!」
流れていく人の波の中で、派手なその髪はひときわ目を引いた。炎のような羽織がたなびいている。
煉獄さんは振り返り、目を丸くした。私はたまらず駆け寄る。
「どうやってここへ?」
煉獄さんは肩へと止まった鴉に「そうか、要が」と呟き、その嘴を撫でた。
歌舞伎へ行ったときに見た表情とはまた違い、糸がぴんと張り詰めたような、そんな雰囲気をまとっていた。
――忙しいときに、出過ぎた真似をしてしまった。
「手紙をありがとうございました。すみません、どうしてもこれを渡したくて、会いに来てしまいました」
早口でそう言いつつ、手に握りしめていた水筒を差し出す。
「甘酒です。よかったら、任務の合間にでも飲んでください。力が出るはずです」
やはり迷惑だっただろうか。煉獄さんの反応を見るのがどこか怖く、私は目を伏せ、地面の石ころを見つめる。
「甘酒か!」
朗々とした声とともに、差し伸べた水筒が煉獄さんの手に渡った。
「うまい!」
その言葉に思わず顔を上げると、煉獄さんは水筒の栓を閉め、
「確かにこれは力が湧くな!」
「え、もう飲み終わったんですか?」
「ああ! うまかった!」
いつもの調子で笑う煉獄さんに、胸のつかえが取れたような気がした。
私は水筒を受け取りつつ、駅の方を見やる。
「これから汽車に乗るんですか?」
「うむ! 君は乗ったことがあるか?」
「いいえ。見たこともないです」
「一緒に来るか、と言いたいところだが、今回はやめておこう」
煉獄さんは口角をかすかに上げた。何か意味を含んでいるような気がして、「どうしてですか」と無邪気に訊こうとした自分を恥じた。
「すみません、引き止めてしまって」
「構わない。ところで、家までの帰り道は分かるか?」
「……あっ、いいえ」
言われて気づいた。鴉の後を追ってここまで来たので、家までどう帰ったらいいのかさっぱり分からない。一人でこんなに遠くまで来たのは、生まれて初めてだった。
「どうしよう……」
それでも、どう帰ろうかと辺りを見渡しながら思案していると、冷たい風を感じた。ふと目をやると、青白い顔をした初老の男性が立っていた。先ほど往来の中で声を掛けてきた亡霊だ。ぐっと顔を寄せてきて、聞こえてるんだろう、と凄むので、
「やめて」
払うようにして手を振ると、男性の体をすり抜けた。それでも目を見開いたまま、じっと覗き込んでくる。
そのとき、腕にぬくもりが広がった。
「怯えるな」
煉獄さんが、私の腕に手を当てていた。そうして、腰をかがめて目線を合わせてくれる。
「自分の見たいものに集中しろ。君はここにいる。大丈夫だ」
亡霊は消えてゆく。視界には、煉獄さんただ一人しかいない。息をするのも忘れるほどだった。煉獄さんの言葉が身体中に染み渡る間、私はその赤い瞳から目が離せなかった。
ようやく小さな息を吐くことができたとき、煉獄さんはうなずき、笑んだ。
そうして振り返ると、「少し待っていてくれ」と言い、客を下ろしたばかりの車夫へと声を掛けに行った。
そうして私の方へと手を上げると、「こっちへ」と招く。
「車夫さんが君を家まで送り届けてくれる!」
「人力車なんて、初めて乗ります」
そうか、と笑った煉獄さんは、私の手を取り人力車へ乗り込むのを手伝ってくれた。
「煉獄さん」
煉獄さんは、人力車に乗った私を少し見上げる形になる。その手を離したくなくて、ぎゅっと強く握ってしまう。
時間が足りない。煉獄さんといると、いつもあっという間に時が過ぎてしまう。もっと話したい。次はいつ会えるんだろうか。
そんなことをぐるぐると考えていると、煉獄さんのもう片方の手がすっと伸びてきて、
「皺ができているぞ」
眉間をとん、と指先で押される。その瞬間、思わず目をつむってしまった。
「君の顔が見られて良かった。ありがとう」
瞼を開けると、煉獄さんは屈託のない笑みをたたえて言うのだった。
「また会いに行く」
人波の中に消えていく煉獄さんを、揺れる車の上からずっと見つめていた。煉獄さんもまた、私の姿が消えるまで、大きく大きく手を振ってくれていた。
あのぬくもりが、もうすでに恋しい。